法受寺|足立区東伊興にある浄土宗寺院

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普賢山法受寺|伊興七福神の布袋尊、上野王子駒込辺三十三ヶ所観音

法受寺の概要

浄土宗寺院の法受寺は、普賢山新幡随院と号します。正暦3年(992)恵心僧都によって、豊島郡下尾久の地に、天台宗恵心院法受寺として開創、宝暦3年(1753)豊島郡谷中に移転、新幡随院法受寺と称しました。浅草にあった田島山誓願寺の別院照光山安養寺、下谷法受寺と合併、昭和10年に当地へ移転しました。上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場33番札所、江戸東方三十三観音10番札所、伊興七福神布袋尊です。

法受寺
法受寺の概要
山号 普賢山
院号 新幡随院
寺号 法受寺
住所 足立区東伊興4-14-8
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 墓苑募集中、ペット霊園「生類憐れみの碑」



法受寺の縁起

法受寺は、正暦3年(992)恵心僧都によって、豊島郡下尾久の地に、天台宗恵心院法受寺として開創、宝暦3年(1753)豊島郡谷中に移転、新幡随院法受寺と称しました。浅草にあった田島山誓願寺の別院照光山安養寺、下谷法受寺と合併、昭和10年に当地へ移転しました。上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場33番札所、江戸東方三十三観音10番札所、伊興七福神布袋尊です。

足立区仏教会その歩みと名鑑による法受寺の縁起

当寺は、正暦3年(992)恵心僧都によって、豊島郡下尾久の地に、天台宗恵心院法受寺として開創され、文永元年(1264)浄土宗に改宗された。
宝暦3年(1753)豊島郡谷中に移転し、新幡随院法受寺と称したが、関東大震災後、下谷三崎町の法受寺と浅草の照光山安養寺とが合併して、昭和10年に現在地に建立された。草創以来990余年に及ぶ古寺である。
当寺には、嘉元2年(1304)の奉納と伝わる鎌倉幕府8代将軍久明親王の父、後深草法皇の法体木像ならびに正応3年(1290)に納められたという御尊碑がある。
また五代将軍徳川綱吉の生母、桂昌院の墓がある。将軍の生母として大奥に絶大な勢力を振るい、女性にとって最高の位階である従一位を生前贈られている。この墓は区の登録文化財になっている。同じ墓域に常陸国笠間城主本庄宗資の墓や、柔術家関口弥太郎の墓、書家墨庵の墓などがある。(足立区仏教会その歩みと名鑑より)

御府内寺社備考による法受寺の縁起

増上寺末 谷中三崎 普賢山新幡随院法住寺 境内3678坪、東叡山領年貢地
起立之儀者宝暦3年。当寺開山了硯義ハ下谷幡随院住職中、有徳院様・惇信院様御帰依被為在、時々登 城被仰付、御加持護符等差上候処、上州新田大光院へ転住順次相成。左候得は遠境御用向御差支ニ被為在、格別之思召を以次座之僧へ移転住職被 仰付、了硯義ハ御差留ニ相成、於幡随院其身一代紫衣被成下、永住職被 仰付。依之御当地下尾久村法受寺を谷中三崎へ引移、御祈祷所ニ支度御願申上候処、願之通被 仰付。再建中相州鎌倉光明寺ヘ移転住職蒙 仰、法住寺兼帯仕候。当寺元来武州豊島郡下尾久村法受寺境内750坪御見捨地ニ御座候処、当寺開山了硯和尚浅草幡随院住職中、宝暦3年下尾久村三崎へ引地ニ相成、下尾久村御見捨地年貢当寺ヘ相納来り申候。 開山讃蓮社礼誉上人了硯大和尚、宝暦7年8月3日鎌倉光明寺ニ而遷化。 開基光誉法順大徳、下尾久村法受寺開基、俗名鈴木隼人、永正元年8月23日卒。事蹟同村百姓清右衛門先祖ニ御座候(御府内寺社備考より)

新編武蔵風土記稿による法受寺の縁起

(上尾久村)法受寺跡
當寺は村民清右衛門が先祖鈴木隼人と云者の開基せし寺なり、此人永正元年八月廿三日死せしと云へば、起立の年代も大抵推て知らる、遥の後了碩和尚浅草幡随院法性寺と改號せし由、彼寺記に載たり。(新編武蔵風土記稿より)

法受寺所蔵の文化財

  • 後深草法皇諸尊碑・御尊像奉安(足立区登録文化財)
  • 桂昌院殿御霊廟(足立区登録文化財)

法受寺の周辺図