諏方神社|荒川区西日暮里の神社

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諏方神社|日暮里(新堀)村・谷中町の総鎮守

諏方神社の概要

諏方神社は、荒川区西日暮里にある神社です。諏方神社は、元久2年(1202)豊島左衛門尉経泰が信州諏訪神社より勧請して創建したといいます。江戸期には慶安2年(1649)には社領5石の御朱印状を拝領、日暮里(新堀)村・谷中町の総鎮守として崇敬を集めただけでなく、日暮の里<ひぐらしの里>として江戸有数の景勝地としても有名だったといいます。

諏方神社
諏方神社の概要
社号 諏方神社
祭神 建御名方命
相殿 -
境内社 末廣稲荷神社、銭降稲荷神社、三宝荒神社、三峰神社
住所 荒川区西日暮里3-4-8
備考 日暮里(新堀)村・谷中町の総鎮守



諏方神社の由緒

諏方神社は、元久2年(1202)豊島左衛門尉経泰が信州諏訪神社より勧請して創建したといいます。江戸期には慶安2年(1649)には社領5石の御朱印状を拝領、日暮里(新堀)村・谷中町の総鎮守として崇敬を集めただけでなく、日暮の里<ひぐらしの里>として江戸有数の景勝地としても有名だったといいます。

新編武蔵風土記稿による諏方神社の由緒

(新堀村)諏訪社
村内及谷中の惣鎮守とす。一寸許なる薄黒き円石を神体とす。社領5石の御朱印は慶安2年附らる。元享年中豊島左衛門尉経信州の諏訪を勧請せる由縁起に載たり。例祭7月26日社邊東の方を諏訪台とし、眺望勝景の地なり。林信充か浄光寺八景詩歌は則此処にての作なり。所謂八景は筑波茂陰、黒髪晴雪、前畦落雁、後岳夜鹿、隅田秋月、利根遠帆、暮荘烟雨、髪祠老松なり。皆望中の景色なり。
末社。山王、稲荷。(新編武蔵風土記稿より)

東京都神社名鑑による諏方神社の由緒

信濃国諏訪の住人豊島左衛門尉経泰は、諏訪明神を敬い守護神と崇めていたが、治承のころ、源頼朝の幕下に参じ、関東の野に奮戦して勇名をとどろかし、その軍功により豊島の地を賜わる。これも御神徳の賜と経泰江戸に移住するとき一行とともに下行、己が庭内に勧請するが、これを郷土の人びと明神の御神徳と仰ぎ、産土神として奉仕するに至る。とき、元久二年(一二〇六)である。文安(一四四四-九)のころにおよんで、太田道濯当社に祈り、霊験あらたかなるをもって、社領を寄進するなど、信仰大いに寄せられる。寛永十一年(一六三四)日暮里の現在地に山をひらきて御遷座し奉る。慶安二年(一六五〇)には、徳川氏神領として五石の御朱印を寄せ、爾来、徳川氏は厚き誠を寄せられた。当地は、上野より飛鳥山に通じる高台にあって、四季の眺望よく、文人墨客の遊観頻繁にして、諏訪台八景の地に選ばれるなど、江戸景勝の地としても賑わった。(東京都神社名鑑より)

文京区史跡さんぽ実施報告書による諏方神社の由緒

創立は元享2年(一三二三)豊島経康が信濃国の諏訪大社から御神体を勧請したのが始まりであるといわれている。御祭神は、〝建御名方命〟である。この神は古事記神話に登場する神で、大国王神の子である。天孫降臨に先立ち高天原から遣わされた、武甕槌神との抗争に負け、諏訪に引きこもり、国譲りを承諾した神である。
文安年間(一四四四~一四九九)太田道灌が神領を寄進し、のち江戸時代徳川家光が5石の朱印を与えている。寬永12年(一六三五)社殿を現在の協に遷座した。明治になり、日暮里・谷中の総鎮守として、近郊の人々が霊験あらたかな御神徳を敬い、参拝している。昭和に入り、20年(一九四五)3月の戦災を受けたが、昭和27年復興した。
なお「諏訪」とせず、「諏方」と使っているのは古来の表記であり、かつては神社名には、この方が多かった。現在は全国で一万有余あるうち、三~四社のみになったとのこと。本社では所有する元禄時代の軸に、「諏方大明神」と記されている。よって、「諏方神社」 の社名を続けている。
文化財としては、文化年間に疫病払いに作られた山車が戦災にも焼けず残った。現在、早稲田大学演劇博物館に保存されている。また、社殿の脇に柱状の庚申供養塔があり、元禄12年(一六九九)、元禄14年(一七〇一)新堀村の文字が刻まれている。(文京区史跡さんぽ実施報告書より)

諏方神社所蔵の文化財

  • 諏方神社鳥居(荒川区登録文化財)
  • 諏方神社文書(荒川区登録文化財)
  • 庚申塔2基(元禄12年10月吉日銘他)(荒川区登録文化財)

諏方神社の周辺図