二宮神社|船橋市三山の神社

猫の足あとによる千葉県寺社案内

二宮神社|船橋市三山の神社

二宮神社の概要

二宮神社は、船橋市三山にある神社です。二宮神社は、嵯峨天皇の勅命により弘仁年間(810-824)に創建したといいう下総国の二宮寒川神社に比定されるといいます。馬加城主千葉康胤の奥方の出産を文安2年(1445)に祈願、千葉県無形民俗文化財に指定されている「下総三山の七年祭り」の起源となったといいます。天正19年(1591)徳川家康より社領10石(うち5石は別当寺の神宮寺分)の御朱印状を拝領、明治7年郷社に列格していました。明治43年、三山字北ノ海道の無格社若宮八幡神社、三山字西庭の摂社阿波八幡大神を合祀したといいます。

二宮神社
二宮神社の概要
社号 二宮神社
祭神 速須佐之男命、稲田比売命、大国主命、藤原時平、大雀命、誉田別命
相殿 -
境内社 -
住所 千葉県船橋市三山5-20-1
祭日 10月16日
備考 旧郷社



二宮神社の由緒

二宮神社は、嵯峨天皇の勅命により弘仁年間(810-824)に創建したといいう下総国の二宮寒川神社に比定されるといいます。馬加城主千葉康胤の奥方の出産を文安2年(1445)に祈願、千葉県無形民俗文化財に指定されている「下総三山の七年祭り」の起源となったといいます。天正19年(1591)徳川家康より社領10石(うち5石は別当寺の神宮寺分)の御朱印状を拝領、明治7年郷社に列格していました。明治43年、三山字北ノ海道の無格社若宮八幡神社、三山字西庭の摂社阿波八幡大神を合祀したといいます。

「稿本千葉県誌」による二宮神社の由緒

二宮神社
同郡(千葉郡)二宮村大字三山字西庭に在り、境内三千八百十坪、素盞嗚尊・稲田姫命・大國主命を合祀す。社傳に云ふ、延喜式載する所の寒川神社にしてもと三山明神と稱し近郷二十三村の總鎮守たりと。天正十九年十一月徳川家康社領十石を寄附す、明治七年一月郷社に列せられ本稱に改む。社前碑石あり延喜式内寒川神社と刻す、境内末社四座あり。明治三十九年十二月弊饌料供進指定(「稿本千葉県誌」より)

千葉県神社名鑑による二宮神社の由緒

弘仁年間、嵯峨天皇の勅創。古来、寒川神社、二宮大神と称していた。治承四年藤原師経が当国へ左遷された折、藤原時平公を相殿に合祀した。文安二年、馬加の城主千葉康胤の奥方が懐妊一一ヶ月になっても、出産の模様がなく、康胤は心配して二宮神社他畑・武石・馬加の神職に、馬加の磯辺において安産祈願を命じた。執行後間もなく無事出産されたことにより、康胤は御礼の祭典を近郷二一ヵ村の総社二宮神社において盛大に執行した。これが七年大祭の起源である。現在丑年・未年の七年目毎に、当社他八神社の神輿を集めて大祭を行なっている。慶長年中、東照宮が上総国東金を御成りの際参詣され、御墨印を寄せられ、二代将軍秀忠公を以って、下総国千葉郡三山村において神領一〇石の奉献あり、貞享二年六月一一日五代将軍綱吉公より社領の寄附等があった。明治四三年一二月一六日、千葉郡二宮村三山字北ノ海道の無格社若宮八幡神社、同所字西庭の摂社阿波八幡大神を本社へ合祀した。(千葉県神社名鑑より)

「船橋市史」による二宮神社の由緒

(三山村)二宮神社
平安時代、十世紀前半に成立した「延喜式」の「神名帳」に見える「寒川神社」を、当社の前身とする説が古くからある(清宮秀堅「下総式社考」他)が異説もある。文献以外の資料としては、成田市土室祥鳳院の梵鐘が上げられる。これは鎌倉後期の乾元二年(一三〇三)に鋳造されたもので、「大日本國総州二宮社壇」「當社務大□□沙弥行観」「源範治」等の銘文がある(「千葉縣史料 金石編」二)。この「二宮社壇」が、当社のことをさすものかどうか確定はできないが、その可能性は高いといえよう。天正十九年に至り、徳川家康から一〇石の社領を寄進され、二代将軍以降は朱印地として将軍の代替りごとに朱印状を授与されて保障された(「寛文朱印留」下による)。ただし、その内五石は神宮寺に分けられていたという。現在の社殿は安永四年(一七七五)の建立である。(「船橋市史」より)


二宮神社所蔵の文化財

  • 下総三山の七年祭り(千葉県指定無形民俗文化財)
  • 二宮神社のイチョウ(船橋市指定文化財)
  • 二宮神社社殿(船橋市指定文化財)
  • 齋藤その女等奉納句額(船橋市指定文化財)

下総三山の七年祭り

この祭りは、船橋市・千葉市・習志野市・八千代市の九つの神社が集まる下総地方を代表する寄合祭りです。祭りは9月に行われる小祭と、11月に行われる大祭からなり、6年毎の丑年と未年に行われ、数え年で7年になることから七年祭りと呼ばれています。
お祭りの起源には複数の説がありますが、室町時代の千葉一族、馬加康胤にまつわる安産祈願と安産御礼の故事に由来する説が有力とされています。
小祭はかつて湯立ての神事により大祭の日を占ったことから湯立祭とも呼ばれ、二宮神社だけで行われます。神輿や山車などが、一日かけて三山町内をねり歩きます。
大祭初日は「禊式」で、旧鷺沼海岸に行き身を清め、翌日に備えます。2日目は「安産御礼大祭」で神揃場(船橋市三山7)に全ての神社の神輿が勢揃いし、七曲りと呼ばれる道を通って二宮神社に向かい、昇殿して参拝します。3日目の「磯出祭」は千葉市の旧幕張海岸で、4社によって行われる安産を祈願する祭事です。このあと二宮神社と子安神社の神輿による「別れの儀式」を行い、その帰りに二宮神社の神輿だけが習志野市鷺沼の「神之台(火の口台)」に立ち寄って、神事を行います。この神事は、祭りの終わりを知らせるものと言われています。
【各神社の役割】
二宮神社(船橋市三山)父
子安神社(千葉市花見川区畑町)母
子守神社(千葉市花見川区幕張町)子守
三代王神社(千葉市花見川区武石町)産婆
菊田神社(習志野市津田沼)叔父
大宮大原神社(習志野市実籾)叔母
時平神社(萱田時平神社大和田時平神社)長男
高津比咩神社(八千代市高津)娘
八王子神社(船橋市古和釜町)末息子(船橋市教育委員会掲示より)

二宮神社社殿

二宮神社は、社伝によれば弘仁年間(810~824)の創建とされる古社です。現在の社殿は棟札や各部の建築様式から、安永年間(1772~1781)に再建されたものであると考えられます。
社伝は、手前の拝殿と奥の本殿、拝殿と本殿をつなぐ幣殿からなっています。本殿は大正11年(1922)、拝殿は大正14年(1925)、それまで茅葺きだった屋根を銅板に葺き替えています。
社殿のデザインには、谷を挟む正面の鳥居から参拝することを考慮した造りとなっています。参道の階段を登り終わるころに、二の鳥居の向うに向拝の唐破風が大きく見えるように工夫されています。
拝殿の周囲は、背面を除いて回縁となっており、建具は横桟の多い舞良戸です。拝殿・幣殿の天井は格天井となっています。
側面に回り全景を見ると、本殿は反りのある切妻造りで、前方に矢屋根をのばして庇を出す流造です。本殿の胴羽目板や脇障子は中国に故事をモチーフにした見事な彫刻が施されており、江戸時代後期の彫工の優れた技術を垣間見ることができます。また、軒の組物・腰組は当時の宮大工の手法によるものと考えられ見事な意匠と造作がなされています。(船橋市教育委員会掲示より)

齋藤その女等奉納句額

文久3年(1863)、大穴の齋藤その女、田木ノ井(田喜野井)の鍬賀、正伯(薬円台)の林中ら、三山近在の俳人たちが主催者となり、当時、江戸で著名な俳人であった孤山堂卓郎らを選者に迎えて、二宮神社に俳句の額を奉納しました。
句額は、二宮神社の拝殿内に掲げられています。縦107cm、横376cmの大きなケヤキの一枚板に、二宮神社の近郷21ヶ村の村人や江戸・市川の人、あわせて80名が詠んだ俳句が刻まれています。
装飾は江戸の工人野川法眼平朋郷によって彫刻された贅沢な作りになっています。
主催者の一人である、齋藤その女は、天明2年(1782)に大穴村(現:船橋市大穴)の名家に生まれ、幼い頃から俳諧に親しみ、江戸で活躍していた高名な俳人に師事した船橋を代表する俳人です。
その女の句の脇には「八十二老その女」と刻まれており、奉納当時2歳であったことがわかります。
句額は、江戸時代後期に俳句を嗜む人が多くいたことを知ることができるとともに、俳人齋藤その女の人柄と足跡を物語る資料としても貴重なものです。(船橋市教育委員会掲示より)

二宮神社の周辺図


参考資料

  • 「船橋市史」
  • 千葉県神社名鑑
  • 「稿本千葉県誌」