幸徳稲荷神社|千代田区神田小川町の神社

猫の足あとによる東京都寺社案内

幸徳稲荷神社|稲葉丹後之守の江戸小石川中屋敷に創祀る

幸徳稲荷神社の概要

幸徳稲荷神社は、千代田区神田小川町にある稲荷神社です。幸徳稲荷神社は、江戸時代山城国城主稲葉丹後之守(三代将軍徳川家光の乳母 春日の局の後裔)の江戸小石川中屋敷に祀られ、鍛冶屋稲荷と称したといいます。明治維新後に小川町の守護として建立、小川町内4町会により宗教法人化され、運営されています。

幸徳稲荷神社
幸徳稲荷神社の概要
社号 幸徳稲荷神社
祭神 宇迦之御魂神
相殿 -
境内社 -
住所 千代田区神田小川町2-14-14
祭日 2月3日、節分祭、神田祭(5月15日前後)
備考 幸徳会館を小川町所縁の人に開放



幸徳稲荷神社の由緒

幸徳稲荷神社は、江戸時代山城国城主稲葉丹後之守(三代将軍徳川家光の乳母 春日の局の後裔)の江戸小石川中屋敷に祀られ、鍛冶屋稲荷と称したといいます。明治維新後に小川町の守護として建立、小川町内4町会により宗教法人化され、運営されています。

境内掲示による幸徳稲荷神社の由緒

幸徳稲荷神社は伝承によれば、山城淀藩稲葉家上屋敷の屋敷神として「鍛冶屋稲荷」として祀られ、五穀豊穣、武運長久が祈願されていた。維新後に屋敷は引き払われ、同地は町屋となったことから、町内の守護神として新たに伏見稲荷大社より勧請して社殿を造営したと伝えられている。また現地説明板によれば、「毎年五月十四日十五日の両日修祓式を行い、神楽を奏し祭典を施行」したと記されており、これは現在にも引き継がれ、神田祭に合わせて大祭が行われている。昭和三一年、これまで維持管理を行ってきた「小川町北部町会」が現在の四町会に分離したため、「幸徳稲荷神社奉信会」を結成して活動を引き継いだ。さらに昭和四三年には、境内に「幸徳会館」を建築し、二階に杜を移して宗教法人化した。代表役員・責任役員を各町会から選出し、小川町北部三丁目町会が中心となって維持管理にあたっている。現在では毎年二月三日に節分祭があり、神事の後、豆撒きが行なわれる。(境内掲示より)

「千代田の稲荷」による幸徳稲荷神社の由緒

鍛冶屋稲荷社は。小川町一番地にあり、舊稲葉美濃守屋敷内に勧請せられたる鎮守の稲荷社なるが、維新後に及ひて、同邸には引払はれ、三田へ移轉したるが、稲荷社のみは、此地に残留りと。社頭石の鳥居あり、左柱に文化四丁卯年二月初午右柱に慶應三卯年二月再建の銘あり。又元禄十四年奉納の石盥水盤あり。土を盛りて一段高き處に小祠あり、喜連格子の内、神鏡一面、幣束の風にゆらぎて、神躰は厨子の内にあり。毎年四月九日十日の兩日祭典を執行せり、昔は豊玉稲荷般若院の社僧を聘し、祭典を營みしといふ。嘗て辻村清平と稱する刀劔鍛冶師ありて、名刀一口を奉納したりと、其子孫連綿たりしが、今はいかがなりしや、又年々例祭を執行ひ甚だ賑はへりと。(「千代田の稲荷」より)

東京名所図会による幸徳稲荷神社の由緒

鍛冶屋稲荷社は。小川町一番地にあり、舊稲葉美濃守屋敷内に勧請せられたる鎮守の稲荷社なるが、維新後に及ひて、同邸には引払はれ、三田へ移轉したるが、稲荷社のみは、此地に残留りと。社頭石の鳥居あり、左柱に文化四丁卯年二月初午右柱に慶應三卯年二月再建の銘あり。又元禄十四年奉納の石盥水盤あり。土を盛りて一段高き處に小祠あり、喜連格子の内、神鏡一面、幣束の風にゆらぎて、神躰は厨子の内にあり。毎年四月九日十日の兩日祭典を執行せり、昔は豊玉稲荷般若院の社僧を聘し、祭典を營みしといふ。嘗て辻村清平と稱する刀劔鍛冶師ありて、名刀一口を奉納したりと、其子孫連綿たりしが、今はいかがなりしや、又年々例祭を執行ひ甚だ賑はへりと。(東京名所図会より)


幸徳稲荷神社の周辺図


参考資料

  • 「千代田の稲荷」
  • 東京名所図会