太田姫稲荷神社|千代田区神田駿河台の神社

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太田姫稲荷神社|一口稲荷神社を勧請、神田駿河台の鎮守

太田姫稲荷神社の概要

太田姫稲荷神社は、千代田区神田駿河台にある神社です。太田姫稲荷神社は、太田道灌の娘が重い疱瘡に罹った際、小野篁が創建した京都一口稲荷神社を勧請して、江戸城本丸内に長禄元年(1457)創建したと伝えられ、一口稲荷神社とも呼ばれていました。太田道灌は後、当社を江戸城鬼門へ移しましたが、徳川家康入府後、神田駿河台裏側の大坂へ遷座、坂は一口坂と呼ばれ、神田駿河台の鎮守となったといいます。昭和6年、総武線延伸工事の際に、当地へ遷座しました。

太田姫稲荷神社
太田姫稲荷神社の概要
社号 太田姫稲荷神社
祭神 宇迦之御魂神
相殿 菅原道真公、徳川家康公
境内社 金山神社
住所 千代田区神田駿河台1-2-3
祭日 例祭日5月15日
備考 -



太田姫稲荷神社の由緒

太田姫稲荷神社は、太田道灌の娘が重い疱瘡に罹った際、小野篁が創建した京都一口稲荷神社を勧請して、江戸城本丸内に長禄元年(1457)創建したと伝えられます。太田道灌は後、当社を江戸城鬼門へ移しましたが、徳川家康入府後、神田駿河台裏側の大坂へ遷座、坂は一口坂と呼ばれ、神田駿河台の鎮守となったといいます。昭和6年、総武線延伸工事の際に、当地へ遷座しました。

境内掲示による太田姫稲荷神社の由緒

太田姫稲荷神社は、戦国の数多い神社の中でも、窮めて豊かな霊験伝承と、古い由緒をもつ神社であります。
神社にまつわる古絵巻と、「駿河台文化史」(総和10年神田史研究会)によると当神社の縁起は九世紀の伝説に始まります。
百人一首の名歌で知られる参議小野篁は、その詩才は白楽天に比せられたほどで、平安時代第一の漢詩人といわれた実在の人物です。
彼は遣唐副使にまで選ばれましたが、上司の横ぐるまに対立して讒言されたことは有名な出来事です。
絵巻物の伝承によると、承和6年はじめ、篁が伯耆国名和港を出航して間もなく、海上ににわかに六、七丈の大波が荒狂い、雷鳴はげしく轟き、今にも海底に引込まれそうになりました。篁は衣冠を正して舟のへさきに座り、普門品(観音経)を熱心に唱えていると白髪の老翁が波の上に現れて
「君は才職世にたぐいなき人であるから流罪になっても間もなく都へ呼返されるであろう。しかし疱瘡(天然痘)を患れべば一命があぶない。われは太田姫の命である。わが像を常にまつればこの病にかかることはないであろう」と告げおわると八重の汐路をかきわけてかき消すように姿を消して行かれたという。そのお告げのとおり、篁は翌年はやくも都へ呼返されました。
彼は自ら翁の像を刻み、常に護持していましたが、のちに山城国の南にある一口(いもあらい)の里に神社をつくって、祝い祭ったということです。
江戸の開祖として知られる太田資長朝臣(後の道灌)には最愛の姫君がいたが重い疱瘡にかかり、世にも頼りなく見えたところ、ある人が一口稲荷神社の故事を話したので急使をつかわして此の神に祈願した。使いは幾日もなく、かの社から祈祷の一枝と幣をささげて帰ってきたが、この日からさしもに重かった病もぬぐうようにいえた。資長朝臣は崇敬の念深く城内本丸に一社建立した。
その後道灌資長はこの社を崇拝し、またこの姫君は此の社を深く信心してつかえるようになったが、ある時この神が白狐を現して、われこの城の鬼門を守るべし、と託宣されたので、ついに鬼門に移して太田姫稲荷大明神と奉唱するようになった。
今から約543年前第百三代後花園天皇の長禄元年(1457)のことである。
慶長8年(1603)徳川家康公が江戸城に入られた後、慶長11年(1606)江戸城大改築を行ない、城内にあったこの社を西丸の鬼門にあたる神田駿河台裏側の大坂に移された。ためにこの坂は一口坂(いもあらいざか、後に鈴木淡路守の屋敷ができたので淡路坂ともいう)と呼ばれた。その後、代々の将軍これを崇拝し、その修理造営は徳川家が行ない、僧職が別当となりて神明奉仕した。この社は駿河台の鎮守として数々の霊験厚く神威いちじるしきこと筆にも絵にも書きつくすことはできない。と古絵巻は伝えています。
慶應2年(1866)本郷春木町より出火、これが大火となって、御神体を除神殿、末社、宝物什器及び別当居宅などを全焼し、
明治5年(1872)神社制度制定により神職司掌として神社奉仕をなす。例祭日は毎年4月18日と定められ、後に5月15日とあらたむ。
大正12年(1923)関東大震災で類焼。御神体のみ無事に湯島天神社に避難する。
大正14年(1925)仮社殿が落成し御神体を奉安す。
昭和3年(1928)氏子各位の寄進により、本社殿、神楽殿、御水舎、神輿庫、社務所、鳥居等新築さる。
昭和6年(1931)お茶の水駅、両国間の総武線建設のため社地の大半を収用され、鉄道省より換地として、現在の地を神社敷地に指定、一切の建築物をそのまま移転して今日に至る。(境内掲示より)

東京都神社名鑑による太田姫稲荷神社の由緒

室町時代関東一帯に天然痘の病が大流行して、死者の数は幾百ともしれなかった。時の関東管領上杉定正の家臣で、文才の豊かな武将として世に知られている太田持資(後の名を道灌という)の姫もまた同じ病にかかっていた。持資は八方手を尽して薬を求め、名医を探して診療したが、姫の病は日一日と悪化していくばかりであった。そんな或る日、持資のところに知人が訪ねてきての話に「山城の国京都の東南に一口の里(いもあらいとよむ)にある稲荷社に祈願すると、どんなに重い天然痘でもたちまちに平癒してしまう霊顕あらたかな社であるから、使者をたてて祈?してはいかがであろうかといわれた。その使者が祈願をして関東へ戻った。すると姫の病が快方にむかい、月余にしてもとの健やかな体になった。喜んだ持資は、いよいよ稲荷の信仰を深め、崇拝することになった。
数年後、定正の命を受けて江戸へ城を築くことになり、鬼門除けとして悪い方角に、神仏を祀る法をもって一社をたてるにおよんで山城の国の一口稲荷社を江戸城中に勧請祭祀した。そのため誰いうとなく太田姫さまといい、その霊顕をばたたえた。時は長禄元年(一四五七)のことであった。大永四年(一五二四)北条氏綱は上杉朝興と戦い、江戸城を攻略し、その居城となし、関東に君臨するにおよんで神社を城外に移し、城域を広めた。のち駿河台地に一口稲荷神社は移り、この地に一口坂、一口橋の名がある。江戸幕府は大学昌平黌を設けるにおよび、昌平橋と名を改めた。一口稲荷社は膿瘡を洗うといって身体の皮肉の腐る病を洗い癒すという御利益があると伝承された。江戸初期甲賀忍者あまた移り、徳川幕府はその屋敷をつくり、また旗本の屋激も多く、大久保彦左衛門屋敷もあった。町名も甲賀町ともいった。明治・大正のころは西園寺公をはじめ爵位ある人の邸宅、岩崎財閥の本邸があり、昭和初期には明治・中央∵日本大学・専間学校等の学園の街に変わりゆくところであった。また静岡の駿河、三河の国が江戸に移りきたところでもある。大正十二年関東大震災でことごとく焼失、昭和三年旧態に復旧造営成る。昭和六年秋、鉄道用地のために(御茶の水両国線施設)現在地に移築する。(東京都神社名鑑より)


太田姫稲荷神社の周辺図