築地本願寺|中央区築地にある浄土真宗本願寺派寺院

猫の足あとによる東京都寺社案内

築地本願寺|京都西本願寺の東京別院

築地本願寺の概要

浄土真宗本願寺派寺院の築地本願寺は、京都西本願寺の東京別院です。築地本願寺は、本願寺第十二世准如上人が発願開基となり、元和3年(1617)浜町に浅草御堂と称して創建、「お西さま」、「江戸御坊」と呼ばれたといいます。明暦の大火により、未だ海中だった当地へ移転、門徒の努力により開拓、数十の子院を擁した寺町を形成していましたが、関東大震災に罹災、子院は各地へ移転、本堂は古代インド仏教式伽藍として再建したといいます。

築地本願寺
築地本願寺の概要
山号 -
院号 -
寺号 西本願寺東京別院
住所 中央区築地3-15-1
宗派 浄土真宗本願寺派
葬儀・墓地 築地本願寺
備考 -



築地本願寺の縁起

築地本願寺は、本願寺第十二世准如上人が発願開基となり、元和3年(1617)浜町に浅草御堂と称して創建、「お西さま」、「江戸御坊」と呼ばれたといいます。明暦の大火により、未だ海中だった当地へ移転、門徒の努力により開拓、数十の子院を擁した寺町を形成していましたが、関東大震災に罹災、子院は各地へ移転、本堂は古代インド仏教式伽藍として再建したといいます。

「中央区史」による築地本願寺の縁起

本願寺築地別院(築地三の一)
浄土真宗本願寺派の関東における中心拠点として重きをなす区内第一の名刹である。開基は本願寺第十二世准如上人で、上人の発願により元和三年(一六一七)三月浅草門内浜町に浅草御堂なる一宇を建立したのが創建の由来で、「お西さま」あるいは「江戸御坊」などと呼ばれ、江戸及び東国各地の人々から厚い信仰が寄せられた。すでに上巻に詳しく記述したように、現今の築地に寺基を移したのは明暦の大火に類焼した後のことに属する。
明治以後は万治元年以来の名称であった「築地門跡」を改めて「築地別院」とし、同時に本山から監院・輪番とよぶ役僧が東上してこれを監守するようになった。維新の際一時ここが奥羽総討軍の陣営にあてられたが詳しい記録は寺側に伝わらない。明治五年(一八七二)二月二十六日及び明治二十六年九月七日の再度にわたり、それぞれ火災に焼け落ちている。
震災以前、築地の地にそびえていた紫宸殿式の大伽籃は、明治三十四年五月棟梁帝室技芸員伊東平左衛門、工事長堅田広吼の手によって造営されたものであった。その境内は面積六千四百余坪、本堂の梁間二十間一尺八寸八分、桁間二十二間二寸八分、畳敷五百四十三畳といい、京洛の本山を模した大木造建築であり、西北に面しており、内陣は金泥極彩色で円柱にも金箔を施し、荘厳の美は人の眼をうばわずにはおかなかった。他に太子堂・御成御殿および鐘楼が設けられ、さらに中門内外に五十六宇の末寺があった。いずれも浜町御坊以来本寺に随従し明治前までは境内寺院であった。ちなみに当時の崇敬門末は一府十三県にわたり、東京教区二十六組三百四十五ヵ寺、奥羽教区九組百五十ヵ寺と称したが、その数からもその寺勢なみなみならぬほどがうかがわれる。
現在の伽籃は大正十二年大震災に焼失してから寺容を新しくしたもので、昭和六年十月に工事を起し同十四年四月落成をみた。建坪千九百六十一坪、間口四十八間二尺、奥行三十一間、棟高九十六尺、塔高百十四尺、伊東忠太の設計になる近代的耐震耐火建築で、古インド式の素晴しいその偉容は、幾多信徒の渇仰の的となるにふさわしいもので、聖路加病院・松竹会館とともに築地の三大名物をなしている。外観は古代インド仏教式であり、細部には爪哇ボロブドルその他印度系が加味されている。これに対し内部は純日本式とし各部屋は洋風も併用している。
本尊に安置する阿弥陀如来立像は高さ三尺一寸五分の木仏で聖徳太子の作るところと相伝える。その他上宮太子木像、歴代宗主画像、太田道灌が江戸城の陣鐘に用いたという伝説である梵鐘、赤穂波士間新六愛用の鎗一筋などが保存されている。附属墓地は和田堀に移し、境内は広々とした広場となっていて、日清・日露および太平洋各戦争の表忠碑、九条武子夫人歌碑、画僧酒井抱一の墓、間新六、大瀛師、土生玄磧等の墓石が残されているにすぎない。それらの名墓については別に詳しくのべる。主な年中行事は元旦修正会、春秋彼岸会、五月二十一日宗祖見真大師降誕会、盆会、十一月十一日から十六日にわたって行われる報恩講、大みそかの除夜会などである。
別院には昭和二十六年三月から東京仏教学院が併設され、僧侶子弟の養成を行っている。境外建物として和田堀本願寺廟所および本所慈光院がある。月刊紙「築地本願寺新報」は発行部数一万に達する。
また大正大震災以前にあっては、前に述べたように、中門内外に五十六もの末寺を抱えていたが、震災以後は近郊地帯たる北多摩郡・世田谷区・大田区・葛飾区等に移転し、築地付近に残った末寺は僅か数寺をみるだけとなった。(「中央区史」より)

築地本願寺の旧寺中子院

享保17年(1732)に刊行された江戸砂子によると、築地本願寺には、58ヶ寺の寺中子院がありました。



築地本願寺所蔵の文化財

  • 間新六の供養塔(東京都旧跡)
  • 土生玄碩の墓(東京都旧跡)
  • 酒井抱一の墓(東京都旧跡)
  • 森孫右衛門供養塔(中央区民登録文化財)


築地本願寺の周辺図