正真寺|江戸川区にある真言宗豊山派寺院

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神明山正真寺|南葛八十八ヶ所霊場

正真寺の概要

真言宗豊山派寺院の正真寺は、神明山西光院と号します。正真寺は、暁覚法印が開山となり、慶長6年(1601)に、国府台合戦の戦場となったこの地に堂を建てたのを起源とします。南葛八十八ヶ所霊場27番札所です。

正真寺
正真寺の概要
山号 神明山
院号 西光院
寺号 正真寺
住所 江戸川区北小岩7-27-5
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 南葛八十八ヶ所霊場27番札所



正真寺の縁起

正真寺は、暁覚法印が開山となり、国府台合戦の戦場となった当地に慶長6年(1601)創建したといいます。

新編武蔵風土記稿による正真寺の縁起

正真寺
新義真言宗下総国国分村金光明寺末神明山ト号ス。
本尊阿弥陀ヲ安ス。開山暁覚慶長6年寂セリ。(新編武蔵風土記稿より)

江戸川区の文化財による正真寺の縁起

真言宗豊山派に属し、神明山西光院と号する。開山は暁覚法印(慶長6年:1601)で、永禄・天文の国府台合戦に加わった里見方の武士であったが、後、世の平安を祈願して剃髪して僧侶となり、阿弥陀如来の木像を刻んで、その戦場の跡に堂をたてたのがこの寺の始まりだといわれている。現在の本堂は唐破風様式の鉄筋コンクリート建で、昭和43年10月の再建である。(江戸川区の文化財より)

「江戸川区史」による正真寺の縁起

正真寺(北小岩七丁目二七番五号)
真言宗豊山派に属して神明山西光院と号しもとは千葉県の金光明寺末であった。現在は奈良の長谷寺を本山とする。開基は暁覚法印(慶長六年入寂)で、世の中の平安を祈り阿弥陀如来の木像を刻んで、国府台合戦の戦場となったこの地に堂を建てたのが始まりであるという。江戸時代には近くの神明社の別当をつとめた。現在の本堂は唐破風様式の鉄筋コンクリート建で昭和四十三年十月に新築された。
本堂前の庭に隆純地蔵尊がある。先住田島隆純師は仏教学者として大正大学教授となり、また戦犯の巣鴨拘置所教誨師として知られた人である。昭和三十二年に病歿したが、一周忌にあたりその徳を慕う人々によって地蔵尊が建立された。製作は横江嘉純、題字は浅草寺貫主清水谷恭順師である。
墓地内に寺子屋師匠真田周作夫妻の墓がある。また北小岩四丁目二七番地の観音堂には弘法大師作という光ケ嶽観音がまつられている。これは一寸八分(約五.五センチ)の小金像で、もと里見義豊、義俊の守り本尊として常に甲胄の中に入れて戦場に出たものといわれている。その後義弘、義高、義頼に至り千福寺を建立してこれを祭ったが、義東に至って供養を怠ったところ、文禄元年のこと、沖田家の祖先豊前の寝所に何物かが飛来する物音に驚いて見ると観音の尊像が立っていた。翌朝千福寺に詣でて調べてと厨子の中には尊像がなかった。そこで豊前屋敷内に一字を建立してこれをまつり、当地方の人々の信仰を集めるようになったといわれる。昭和十六年に町会の決議によって正真寺所有の境外仏堂となった。(「江戸川区史」より)

正真寺所蔵の文化財

  • 小岩田の庚申塔ばんどう道石造道標(江戸川区登録文化財)
  • 真田周作筆子塚(江戸川区登録文化財)

小岩田の庚申塔ばんどう道石造道標

享保8年(1723)に建立された青面金剛の刻像庚申塔で、像の脇に「これより左ばんどうみち」と刻まれています。坂東道ならば観音霊場の道、つまり岩槻道か浅草道をさしていると考えられます。(江戸川区教育委員会)

真田周作筆子塚

寺子屋師匠だった真田周作夫妻のために、筆子(生徒)たちが建てました。真田周作は天保4年(1833)没。墓地は右手奥にあります。(江戸川区教育委員会)

正真寺の周辺図