大慈寺。伊勢原市下糟屋にある臨済宗建長寺派寺院

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

法雨山大慈寺。太田道灌中興、首塚

大慈寺の概要

臨済宗建長寺派寺院の大慈寺は、法雨山と号します。大慈寺は、覚智(貞治5年1366年卒)が鎌倉に開山、太田道灌(文明18年1486年卒)が中興開基となり、親戚の周巌(天文4年1535年卒)を中興開山として、当地へ移転の上再建したといいます。大慈寺には、太田道灌ゆかりの文化財が多数所蔵されています。

大慈寺
大慈寺の概要
山号 法雨山
院号 -
寺号 大慈寺
本尊 観音如来像
住所 伊勢原市下糟屋364
宗派 臨済宗建長寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



大慈寺の縁起

大慈寺は、覚智(貞治5年1366年卒)が鎌倉に開山、太田道灌(文明18年1486年卒)が中興開基となり、親戚の周巌(天文4年1535年卒)を中興開山として、当地へ移転の上再建したといいます。

新編相模国風土記稿による大慈寺の縁起

(下糟屋村)大慈寺
法雨山と號す、本寺前に同じ(鎌倉建長寺)。開山覚誉、貞治五年六月十三日卒。中興開山東海、中興開基太田道灌、文明十八年七月廿六日卒、法名大慈寺心圓道灌、按ずるに此寺號を稱ふるは、當寺のみにて、上村洞昌院及系譜等、皆洞昌院を號とす、なり。按ずるに先住東陽、寅政十年三月六日卒、が詩文遺稿中に、當寺小鐘の序銘あり、是に豫れば、古は鎌倉に在しを、道灌此地に移して再興し、其叔父周巌、天文四年七月十三日、武州足立郡藤波村密巌院に卒、叔悦禅師と諡す、を請じて、中興開祖とせしなり。(中略)
本尊正観音。運慶作、長二尺。
道灌の画像一幅、太田摂津守資順筆、寛政八年寄附、を寺寳とす。
稲荷社。(新編相模国風土記稿より)


大慈寺所蔵の文化財

大慈寺は、太田道灌が再興した寺院であることから、太田道灌ゆかりの文化財が多数あります。

  • 木造聖観音菩薩坐像(伊勢原市指定重要文化財)
  • 太田道灌画像(伊勢原市指定重要文化財)
  • 太田道灌画墓(伊勢原市指定史跡)

太田道灌画墓

太田道灌は、室町幕府の重臣である扇谷上杉氏の家宰です。永享4年(1432)に相模で生まれたといわれ、幼名は鶴千代、元服して資長と名乗りました。道灌は剃髪後の名です。
幼少より父道真(資清)の薫陶を受け、康正元年(1455)に家督を嗣ぎ、長禄元年(1457)には26歳で江戸城を築きました。「文武両道の鑑」との誉れ高く、文事では和歌に情熱を傾けてその道に深く通じ、軍事では特に戦略的な才覚に優れて、扇谷上杉氏を守り立てました。しかしその有能さが上杉家宗家の山内上杉顕定に疎まれ、道灌は顕定の讒言を信じた主君の上杉定正によって暗殺されるという悲劇の主人公となりました。文明18年(1486)7月26日、定正の居館である糟屋館(伊勢原市内。詳しい場所は不明)での出来事です。
道灌の墓は、市内ではこの下糟屋の大慈寺と、道灌の遺体を荼毘に付したと伝えられる上粕屋の洞昌院にあります。大慈寺は道灌が鎌倉からこの地に移して再興し、叔父の周巌淑悦禅師を中興開祖としたとされる寺です。現在の本尊である聖観音像も、道灌の持仏であったと伝えられます。墓はいつからか「首塚」と呼び習わされ、宝篋印塔と五輪塔からなる石造の供養塔が祀られています。(伊勢原市教育委員会掲示より)


大慈寺の周辺図