荏柄天神社。鎌倉市二階堂の神社

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

荏柄天神社。日本三大天神

荏柄天神社の概要

荏柄天神社は、鎌倉市二階堂にある神社で、太宰府天満宮・北野天満宮と並ぶ日本三古天神の一つです。荏柄天神社は、雷雨と共に天神の姿絵が降りてきたのを里人が敬い、長治元年(1104)に創建したと伝えられ、源頼朝が鎌倉に幕府を開いた際には、幕府の鬼門守護として崇められたといいます。明治6年村社に列格していました。

荏柄天神社
荏柄天神社の概要
社号 荏柄天神社
祭神 菅原道真公
相殿 八雲大神、熊野三柱神
境内社 -
祭日 例祭日7月25日
住所 鎌倉市二階堂74
備考 -


※御朱印画像はいけみずさんよりの寄贈


荏柄天神社の由緒

荏柄天神社は、雷雨と共に天神の姿絵が降りてきたのを里人が敬い、長治元年(1104)に創建したと伝えられ、源頼朝が鎌倉に幕府を開いた際には、幕府の鬼門守護として崇められたといいます。明治6年村社に列格していました。

鎌倉市掲示による荏柄天神社の由緒

古くは柄柄山天満宮とも称し、福岡の太宰府天満宮、京都の北野天満宮と並び、日本三大天神の一つに数えられて来ました。
平安時代中頃、雷雨と共に天神の姿絵が降りてきたのを里人が敬い、そこに神社を建てて祀ったのが始まりとされます。
源頼朝が大蔵(現在の雪ノ下三丁目付近)に幕府を開くと、その鬼門を守護する神社として崇められました。
境内は国の史跡、本殿は国の重要文化財に指定されています。(鎌倉市掲示より)

神奈川県神社誌による荏柄天神社の由緒

当社の創立については社宝として伝える『相州鎌倉荏柄山天満宮略縁起』によると、「抑当地に此神を尊崇し奉る来由は、往古長治元年(一一〇四)八月廿五日九霄(きゅうしょう)俄に掻曇り、天雷地軸を震ふ。その時雷雨と供に玉軸の一幅、当所の荏畑の中へ降臨し給ふ。人々怪しみ、見奉るに、黒色の束帯にして、両眼天を睨ていかれる尊形の天満宮雲の上に立たまひたる画像にてぞ有ける。里民恐れて、時の帝堀河院へ、奏し奉り、此地に瑞籬をかまへ、御社を立、則画像を崇収し、左右に老松紅梅の両殿を祭る。彼降臨し給ふ地を。土民ふむ事を恐て、銀杏の木を栽、神木と仰く。今の荏柄山是なり。云々。」とあり、後には源頼朝が鎌倉に幕府を開ぐや、幕府の鬼門の守護神として厚く崇敬されたと伝えている。
当社が歴史の上にあらわれてくるのは鎌倉時代の事であり、建仁二年(一二〇二)九月十一日将軍頼家、菅公三百年忌の祭事を行い大江広元を奉幣使として参向せしめている。建保元年(一二二二)二月二十五日渋川兼守は、謀叛の答で処刑される事を聞き愁緒に堪えず、御社頭に十首の歌を奉じた。時の将軍実朝その歌を目にとめ大いに感じいり、その罪を許したという。和歌により冤罪を晴らすという特異な天神信仰は北野天神縁起にも示されている。弘安四年(一二八一)には将軍惟康親王により社殿が造営され、降って鎌倉公方・足利成氏のたび重なる参詣があった事も史書に見える。享徳四年(一四五五)六月十六日、今川範忠鎌倉に乱入した時、御神体を掠奪して駿河に持ち帰ったが、その後御神体は天文十七年(一五四八)十二月の社殿造営には、北条氏康が関を設け関銭を徴してそれに充てた。又、元和八年(一六二二)鶴岡八幡宮造営の時には、若宮社(摂社)の旧社殿をうけて社殿を造営し、これ以降元禄十年(一六九七)、元文元年(一七三六)、宝暦三年(一七五三)、天明元年(一七八一)などにも鶴岡造営の度に残木、古材を受けて社殿を造営している。現社殿は鶴岡八幡宮の震災復興工事の際の仮殿を移したものである。
東寺の末寺・一乗院(廃寺)が別当として神仏分離迄管掌していた。明治六年十二月村社に列格。二階堂区の氏神社である。太宰府、北野とならんで三天神とよばれ、学問の神として御社頭盛んである。(神奈川県神社誌より)


荏柄天神社所蔵の文化財

  • 柄柄天神社境内(国指定史跡)
  • 柄柄天神社本殿(国指定重要文化財)
  • 大銀杏(鎌倉市天然記念物)
  • かっぱ筆塚・絵筆塚

柄柄天神社境内/柄柄天神社本殿

柄柄天神社は長治元年(1104)の創建と伝え、太宰府天満宮・北野天満宮と並ぶ日本三古天神の一つです。祭神は菅原道真(845-903)。治承4年源頼朝が鎌倉に入り大倉に幕府を開くと、その鬼門の鎮守とされたと伝えられています。鶴岡八幡宮と共に武家政権の守護神として、また東国における天神信仰や詩歌信仰の中心となりました。
社殿奥に建つ本殿は国指定重要文化財(建造物)に指定されています。この本殿は、正和5年(1316)再建の鶴岡八幡宮若宮を、元和8年(1622)に始まる鶴岡八幡宮の造営に際し移築したものと考えられています。門の東側には天神が降った場所とされる位置に大銀杏があり、鎌倉市の天然記念物に指定されています。(鎌倉市教育委員会掲示より)

かっぱ筆塚・絵筆塚

手前に佇むのが、河童の漫画を描き続けた清水崑氏が愛用の絵筆を供養し、昭和四十六年に建てた「かっぱ筆塚」です。大きな奥にそびえるのが、清水氏の遺志を継いで横山隆一氏らが平成元年に建立した「絵筆塚」です。当時、日本漫画家協会に所属していた漫画家有志がそれぞれのキャラクターを河童のモチーフで描き、それらの作品一五四枚がレリーフされています。
毎年十月には、清水崑氏を偲び讃え感謝の真心を込めて古筆を供養する絵筆塚祭が執り行われております。(境内掲示より)


荏柄天神社の周辺図