妙法寺。川崎市高津区にある天台宗寺院

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妙法寺。重要歴史記念物の板碑

妙法寺の概要

天台宗寺院の妙法寺は、祇央山龍頭院と号します。妙法寺の創建年代等は不詳ながら、義民地蔵が祀られたきっかけが元禄6年(1693)だといい、江戸時代中期には既に建立されていたことがわかります。重要歴史記念物に指定されている板碑は、山田三宝寺に安置されていたもので、源義朝(源頼朝の父)の家臣鎌田兵衛の百回忌供養に際して造立されたものだといいます。義民地蔵堂は、都築橘樹酉年地蔵尊霊場25番です。

妙法寺
妙法寺の概要
山号 祇央山
院号 龍頭院
寺号 妙法寺
住所 川崎市高津区久末375
宗派 天台宗
葬儀・墓地 -
備考 -



妙法寺の縁起

妙法寺の創建年代等は不詳ながら、義民地蔵が祀られたきっかけが元禄6年(1693)だといい、江戸時代中期には既に建立されていたことがわかります。

新編武蔵風土記稿による妙法寺の縁起

(久末村)妙法寺
字後ろ谷戸にあり、天台宗多磨郡深大寺村深大寺末、祇央山龍頭院と號す、開山の年代を傳へず、客殿六間に七間東向なり、本尊釋迦坐像にして長七寸、作しれず境内すべてすこしく高き地なり。
護摩堂。客殿に向ひて左の方小丘の上にたてり、二間四方南向なり、辨財天不動毘沙門の三軀を安ず。
古碑。上に梵字あり明徳二年七月と刻す、その餘はかけ損じて文字よむべからず。(新編武蔵風土記稿より)


妙法寺所蔵の文化財

  • 板碑(川崎市指定重要歴史記念物)
  • 久末の義民地蔵

板碑

板碑とは、板状の石で造られた一種の卒塔婆のことで、おもに鎌倉時代から江戸時代初期までに造られました。
本板碑は、昭和五十一年の春、妙法寺山門前の古井戸を工事していた時に発見されました。上部と下部を欠損していますが、完形ならば全長一・五メートル以上にもなろうかと推測できる大形の板碑です。蓮弁は彫りの深い薬研彫りで、銘文から本板碑は、鎌倉時代前半の建長七年(一二五五)に、主君の追善供養をするために建てられたことがわかります。その銘文を『新編武蔵風土記稿』「都筑郡山田村三宝寺」の条と照らし合わせると、三宝寺の客殿に安置されていたという石碑に一致します。したがって本板碑は、源義朝(源頼朝の父)の重臣・鎌田兵衛の百回忌供養にあたり、鎌田氏家臣らの発願によって建てられたもので、おそらく三宝寺が廃寺になった時に、近くの妙法寺に移されたものでしょう。
本板碑は、市域に残る九百余基の板碑の中では最も古く、しかも有力な御家人と結びついているという点で、歴史的に重要な意義をもっています。
川崎市教育委員会では、昭和六十三年十一月二十九日、本板碑を川崎市重要歴史記念物に指定しました。(川崎市教育委員会掲示より)

板碑が残されたいたという三宝寺について

(山田村)三寶寺
除地、一段五畝歩、小名殿谷にあり、浄土宗、江戸下谷幡随院末、東林山と稱せり、寺傳に云、永暦元年源義朝の臣鎌田兵衛正清死せしのち、かの菩提を弔ひしが、遙の後建長七年百回忌辰の時、彼が臣其対幅の爲に石碑を建立せしと云、年代をおすに正清は正和元年にて、建長七年より五年の後なり、疑ふべし、其頃の住僧を良範とよびしよし記せり、その石碑は今客殿に収めをけり、銘文に建長七年乙卯初秋日、寺主良範、右爲主君聖靈出離往生極楽、造立如件とあり、中興開基は佛譽常心正保二年三月十二日寂せり、客殿四間四方東に向り、本尊聖観音坐像にして長一尺ばかり、弘法大師の作にして正清の守本尊のよしいひ傳へり。(新編武蔵風土記稿より)

久末の義民地蔵

江戸元禄の時代、久末村の人々は、江戸で派手な生活を送り重い年貢を取り立てる領主、佐橋内蔵之助の悪政に苦しめられていました。
元禄6年(1693)佐橋は年貢を一挙に100石も増やすことを村人達に命じました。これまでの年貢を納めるのもやっとだった村人達は、ついに江戸の佐橋を直接訪ね、年貢引き下げを直訴することを決心します。しかし佐橋の屋敷へ向かった村人達は次々に捕らえられ、19人が殺されてしまいました。
その後年貢は元に引き下げられましたが、19人の命は戻りませんでした。残った村人達が供養のために建てた地蔵は、いつの頃からか義民地蔵(命と引換えに村人を救った人々の地蔵)と呼ばれるようになりました。(高津観光協会・高津区役所掲示より)

妙法寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿