龍源院。座間市入谷にある曹洞宗寺院

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

水上山龍源院。相模七福神の弁財天

龍源院の概要

曹洞宗寺院の龍源院は、水上山と号します。清源院八世格雲守存を開山として寛正2(1461)年入谷丸山下(現在の富士山公園の西側・キャンプ座間内)に創建したといいます。相模七福神の弁財天です。

龍源院
龍源院の概要
山号 水上山
院号 龍源院
寺号 -
本尊 -
住所 座間市入谷1-3530
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 相模七福神の弁財天



龍源院の縁起

龍源院は、清源院八世格雲守存を開山として寛正2(1461)年入谷丸山下(現在の富士山公園の西側・キャンプ座間内)に創建したといいます。のち当地へ移転、天保年間(1830年頃)には当寺住職が寺子屋を開き子弟を訓育、明治5(1872)年には座間入谷・座間・新田宿・四ツ谷の四ヶ村の協力によって風牛学舎(座間小学校の前身)が設けられていました。

新編相模国風土記稿による龍源院の縁起

龍源院
水上山と号す。曹洞宗、愛甲郡三田村清源院末。開山を格雲と云ふ、寛永11年3月14日寂す。釈迦を本尊とす。
龍天善神社。
稲荷社。
白山社。(新編相模国風土記稿より)

座間市教育委員会掲示による龍源院の縁起

龍源院
この寺の縁起は寛正2(1461)年に建立され、かつては入谷丸山下(現在の富士山公園の西側)にあり、山梨県上野原の清源院八世・格雲守存を請して開山となし、清源院の末寺となった。
二世実州は堂宇を改築し、さらにある夜夢枕にたった白蛇のお告げにより、財宝・五穀豊穣を祈念して弁財天を造立し多くの信仰を得今日に至っている。
また伝説によれば、この寺の開基は渋谷高間という鎌倉初期の豪族渋谷氏の末流であったという。
高間は先妻との間の子小桜姫と後妻とその間の子の小柳姫を残したまま、山梨県上野原の報福寺で出家し諸国巡礼に出てしまった。残された後妻のお松は、吾が子小柳姫に家を継がせようと考え、小桜姫を殺して桜田(座間高校付近)の沼に埋めてしまった。
ところが小桜姫と仲の良かった小柳姫は、悲歎・絶望のあまり自分も桜田の泥田に身を投げて自殺してしまった。
事は村人に知れ渡り、お松は捕えられ相模川の堤防の補強のため、死刑の代わりに人柱として生き埋めにされてしまった。
やがて巡礼から戻った高間は、留守中に最愛の妻子が三人ともあわれな死をとげたことを知り、自分の屋敷を寺とし、三人の成仏と自己の滅罪を祈った。これがこの龍源院のはじまりであるという。(座間市教育委員会掲示より)


龍源院所蔵の文化財

  • 史跡風牛学舎跡
  • 龍源院湧水

史跡風牛学舎跡

この寺で学問に秀でた住職が、天保年間(1830年頃)には寺子屋を開き子弟を訓育したといわれるが、「風牛学舎」は明治5(1872)年の学制発布により、翌6年当時の座間入谷・座間・新田宿・四ツ谷の四ヶ村の協力によって、この龍源院に開設された小学校で、いわば現在の座間小学校の前身である。
しかし開校間もない明治8年の夏、大雨のために裏山が崩れ本堂は押しつぶされ、学校は百メートルほど南方の鈴鹿明神社参道入口右側へ移された。
いま風牛学舎の遺物はほとんど見当たらないがその時殉職された訓導中村常一先生の墓碑が残っている。村民有志の建立したこの立派な墓碑を見る時、当時の教育への村民のなみなみならぬ、熱意がくみとれるのである。(座間市教育委員会掲示より)

龍源院湧水

境内東方の崖下には、清水が豊かに湧いているので「龍源院湧水」と名付けた。
この湧水は市水道部の調査(昭和52年3月20日調べ)では、水温17.8度。湧水量日量約170~180立法メートル(湧水量は夏・冬を通してあまり変化しない)。付近の鈴鹿明神社の境内や、後方の台地上には縄文時代の遺跡があることからも、おそらくその頃からこの湧水は利用されていたものであろう。そして古代以後は鈴鹿明神社の東側にあった池にこの湧水はたたえられ、南方に広がる水田の貴重な灌漑用水となってきたのである。(座間市教育委員会掲示より)


龍源院の周辺図