宝持院|葛飾区青戸にある真言宗豊山派寺院

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宝持院|葛西三本寺の一、荒綾八十八ヶ所、新四国四箇領八十八ヵ所

宝持院の概要

真言宗豊山派寺院の宝持院は、薬王山真頂寺と号します。宝持院は、平安末期天養2年(1145)僧弁証が創建したといいます。往時は西青戸の大部分が境内だったといい、慶安元年(1648)寺領5石の朱印領を拝領、江戸期には30ヶ寺の末寺を擁する中本寺格の寺院、葛西三本寺の一つに数えられていました。荒綾八十八ヶ所霊場掛番、西新井組中川通四箇領八十八箇所14番です。

宝持院境内と
宝持院の概要
山号 薬王山
院号 宝持院
寺号 真頂寺
住所 葛飾区青戸8-18-18
本尊 薬師如来坐像
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 葛西三本寺の一つ、荒綾八十八ヶ所霊場掛番札所


宝持院の縁起

宝持院は、平安末期天養2年(1145)僧弁証が創建したといいます。往時は西青戸の大部分が境内だったといい、慶安元年(1648)寺領5石の朱印領を拝領、江戸期には30ヶ寺の末寺を擁する中本寺格の寺院、葛西三本寺の一つに数えられていました。

葛飾区寺院調査報告による宝持院の縁起

天養2年(1145)僧弁証の開創。天文7年(1538)国府台の合戦の兵火によって焼失し、一時荒廃に帰したが、慶長16年(1611)春盛法印が再興した。当時は七堂伽藍を加えた大寺院であったという。慶安元年(1648)、寺領5石の朱印状を下され、近郷30ヵ寺の本寺であり、宗派では葛西3ヵ寺の一に数られていた。宝暦6年(1756)11月の火災と数回にわたる水害のため、多くの寺宝を失ったという。
大和長谷寺第48世永雅は文政8年(1825)から数年間、当寺に住持したことがあり、師手沢の仏書が当寺に残っている。近年、本堂以下が新築されて面目を一新したが、嘉吉2年(1442)鋳造、元禄12年(1699)再興の梵鐘は、今次の戦時供出によって現存しない。墓地には長崎奉行松浦河内守信正の墓(区文化財指定)がある。これは旧松浦家の所領下小合村竜蔵寺にあったが、その寺が廃寺となり、戦後、当寺に移された。また旧幕府御鳥見衆肝煎で立石村名主の島田家の祈念墓碑もある。(葛飾区教育委員会 葛飾区寺院調査報告より)

新編武蔵風土記稿による宝持院の縁起

宝持院
新義真言宗山城国醍醐報恩院末、薬王山真頂寺と号す。寺領5石の御朱印は慶安元年賜へり。当寺は近郷三十ヶ寺の本寺にして、開基は弁證といふ僧にて天養2年起立と云。本尊薬師。
鐘楼。元禄12年鋳造の鐘を掛。(新編武蔵風土記稿より)

竜蔵寺について

竜蔵寺は東金町金蓮院の末寺でしたが、松浦河内守信正の墓が当寺に移された由来は不明です。なお、竜蔵寺の梵鐘は松浦の鐘として、区指定の文化財として、水元公園近くの水元さくら堤に保存されています。

宝持院のもと末寺

葛飾区に現存する宝持院の末寺

宝持院の末寺はもと30ヵ寺といい、葛飾区に12ヵ寺が現存しています。


「新編武蔵風土記稿」に記載されていて、現存しない寺院は、小菅村東養寺、亀有村真福寺(1574年創建、荒綾八十八ヶ所霊場32番札所)、亀有村薬王寺(1469年創建)、青戸村成就院(1570年創建)、梅田村長福寺(1689年創建)の5ヵ寺です。

廃寺となった小菅村東養寺について

東養寺
同宗同末(新義真言宗、青戸村宝持院末)。瑠璃山薬師院と号す、本尊薬師。(新編武蔵風土記稿より)

廃寺となった亀有村真福寺について

真福寺は、西新井組中川通四箇領八十八箇所12番となっていました。

真福寺
これも(慈眼寺光明寺と同じく)同宗同末(新義真言宗青戸村宝持院末)なり。浮境山不動院と号す。本尊薬師。天正2年の起立にして開山の僧を良養といへり。又薬師を安す。是は村内薬王寺と云廃寺の本尊なり。(新編武蔵風土記稿より)

廃寺となった亀有村薬王寺について

薬王寺は、明和5年(1768)に廃寺となったと伝えられます。

薬王寺跡
此寺元宝持院の末にて、文明元年僧静與と云るが起立する処なりしが、明和5年廃寺となりしと云。其跡今は薬師堂除地と云。本尊薬師は真福寺へ移し置り。(新編武蔵風土記稿より)

廃寺となった青戸村成就院について

成就院
同末(新義真言宗村内宝持院末)なり。端厳山青蓮寺と号す。本尊十一面観音を安せり。(新編武蔵風土記稿より)

廃寺となった梅田村長福寺について

長福寺は、梅田村鎮守の梅田稲荷神社の別当寺であったことから梅田稲荷神社の付近にあったものと思われます。

長福寺
新義真言宗青戸村宝持院門徒、梅嶺山香雲院と号す。本尊不動。開山栄秀、元禄2年起立せり。
地蔵堂、長福寺持。(新編武蔵風土記稿より)

葛飾区外に現存する宝持院の末寺



宝持院所蔵の文化財

宝持院の周辺図


宝持院の近隣にある名所