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普賢寺|葛飾区堀切にある真言宗豊山派寺院

普賢寺の概要

真言宗豊山派の普賢寺は、日照山源光院と号します。寿永(1182-84)年間前後に領主葛西兵衛尉入道寂昌が創建したと伝えられます。南葛八十八ヶ所霊場55番札所、荒川辺八十八ヶ所霊場57番札所、荒綾八十八ヶ所霊場87番札所です

普賢寺
普賢寺の概要
山号 日照山
院号 源光院
寺号 普賢寺
住所 葛飾区東堀切3-9-3
本尊 薬師如来坐像
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 墓地受付中
備考 南葛八十八ヶ所霊場55番札所、荒川辺八十八ヶ所霊場57番札所、荒綾八十八ヶ所霊場87番札所



普賢寺の縁起

普賢寺は、寿永年間(1182-84)前後に領主葛西兵衛尉入道寂昌がが創建、慶長年間に入り宥海法印が衆縁を募って再建したと伝えられます。

葛飾区寺院調査報告による普賢寺の縁起

当寺山門の天井板碑によれば、当寺は治承4年(1180)8月の開基である。また「新編武蔵風土記稿」の掲げる縁起では、寿永(1182-84)の頃、この地にあった朽ちた大木の根本から、清水が湧き出したので、領主葛西兵衛尉入道寂昌がその根を堀らしめて薬師仏の像を得た。よって寂昌は堂を建て、普賢寺と名づけ、寺領等を寄付した(この寺領が足立郡普賢寺村の30町歩という)。その後、建治元年(1275)、和田北条合戦のとき、領主葛西民部少輔は討死し、寺も焼亡したので、その子六郎常則は僅かに3歳、その母が薬師像を懐にして母子ともに立ち退き、14年の後、常則は北条家に仕えて、本領葛西の地に戻り、弘安6年(1283)、薬師堂を再興し、法空阿闍梨を請待して導師としたと伝え、山門の天井板銘ではこの法空を中興開山としている。
天文7年(1538)10月、国府台の合戦で、兵火に罹り、多くの寺宝・記録を失い、北条氏綱の再興を経て、天正18年(1590)再び兵火のために焼失し、慶長年間、宥海法印がその荒廃を惜しみ、衆縁を募って再建した。その後も、水火災に本堂大破し、昭和39年12月、現在の本堂が完成した。(葛飾区教育委員会 葛飾区寺院調査報告より)

新編武蔵風土記稿による普賢寺の縁起

普賢寺
新義真言宗青戸村宝持院末、日照山源光院と号す。開山法空弘安6年3月朔日寂す。本尊は鼓薬師と号し、長2寸弘法大師の作なれど、今は別に木佛を造りて其腹籠に安ずと云。縁起によるに寿永の頃当所に朽たる大木あり。其根より清水湧出せしかは領主葛西兵衛尉入道寂昌、其樹根を掘らしめて薬師の像を得たり。よりて堂宇を創し普賢寺と名付、寺領等を寄附せしに建治元年和田北条合戦の時領主葛西民部少輔討死し、堂宇も焼亡せられしゆへ其子六郎常則はやうやく三歳なりしかば、母なる人此薬師の像を懐にして母子共に此地を退けり。其後14年を経て常則再び北条家に属し、本領葛西の地を賜りてここに住せしかは、弘安6年薬師の堂を再造し、法空阿闍梨を請待して導師となせり。其後北条氏綱中興せしが、天正18年又兵火のために焼失して僅かに昔の蹟のみ存する事となれり。又此寺始は隣村足立郡普賢寺持にありしゆへ、今も地名に残りしと云、或いは寺領なりしとも云。
古碑二基。共に五輪石塔にて文字は有へけれど漫漶して知へからず。過去帳に高徳院傳勇玄居士建久4年8月8日、清重栄松院殿常山居士元仁元年9月23日、常一惠覚院殿寂入居士弘安10年6月6日。常則香林院紫雲妙月大姉正安2年2月14日母公と載るものあり。是等の内の墳なるにや。
稲荷社。(新編武蔵風土記稿より)


普賢寺所蔵の文化財

  • 普賢寺宝篋印塔3基(東京都指定文化財)
  • 刊本大般若経600帖(葛飾区指定有形文化財)
  • 普賢寺庚申灯籠1対(葛飾区指定有形文化財)

普賢寺庚申灯籠1対

この庚申灯籠は、寛文6年(1616)地元の庚申講の人々によって建てられたものです。「寛文6丙午年 石燈篭庚申成就二世楽処 十二月今日」と記されています。
区内に在る多くの庚申供養塔の中でも灯籠を供養塔にしたものはこれだけで大変めずらしいもおです。
60日に一度めぐってくる庚申の日に、人々が健康長寿を願って集まり夜明かしをすることを守庚申、庚申待といいます。このような庚申信仰は、庚申待の成就などを記念してそれらの供養のために庚申塔を作りました。(葛飾区教育委員会掲示より)


普賢寺の周辺図


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