柴又帝釈天題経寺|葛飾区柴又にある日蓮宗寺院

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柴又帝釈天題経寺|柴又七福神の毘沙門天

柴又帝釈天 題経寺の概要

日蓮宗寺院の題経寺は、経栄山と号し、柴又帝釈天として著名です。題経寺は市川市中山法華経寺第19世禅那日忠が当地にあった草庵を一寺とし成し、寛永6年(1629)開山したといいます。本堂改築に際して、梁の上から日蓮聖人自刻と伝えられる帝釈天像の板木(板本尊)を安永8年(1779)の庚申の日に発見、柴又帝釈天として著名となり、現在に至るまで庚申の日を縁日としています。柴又七福神のうちの毘沙門天としても有名です。題経寺の墓地と、浅間山噴火川流溺死者供養碑は葛飾区柴又5-9-18にある宝生院横にあります

柴又帝釈天帝釈堂
題経寺の概要
山号 経栄山
院号 -
寺号 題経寺
住所 葛飾区柴又7-10-3
本尊 帝釈天板木(帝釈堂)、三宝祖師・四菩薩・不動愛染両明王像(祖師堂)
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 -
備考 柴又七福神の毘沙門天



柴又帝釈天題経寺の縁起

柴又帝釈天題経寺は、中山法華経寺第19世禅那日忠が当地にあった草庵を一寺とし成し、寛永6年(1629)開山したといいます。本堂改築に際して、梁の上から日蓮聖人自刻と伝えられる帝釈天像の板木(板本尊)を安永8年(1779)の庚申の日に発見、柴又帝釈天として著名となり、現在に至るまで庚申の日を縁日としています。

新編武蔵風土記稿による柴又帝釈天題経寺の縁起

題経寺
法華宗、下総国葛飾郡中山村法華経寺末、経栄山と号す。相傳ふ古は草庵のごとくなりしを、寛永6年本山()法華経寺19世禅那院日忠草創せしよりこの僧を開山とす。萬冶3年10月16日寂せり。其後延宝年中本山の塔頭正善坊、後院と号す。日遼、当寺を兼帯して其功ありしより中興と称す。
帝釈天像。
縁起の略に云。当寺に日蓮彫刻せし祈祷本尊とて、寺寶にありしよし古へより云傳へしが、其在所を知らず。然るに安永8年本堂再建の時棟上より長2尺5寸、幅1尺5寸、厚さ5分程の板出たり。水をもて其煤塵を清めしに、片面は病即消滅の本尊を彫し、片面には帝釈天の像を刻せり。板の小口は松に似て脇の方は檜に類し、堅く重きこと尋常ならず。是即ち言傳へし日蓮自刻の寺寶なりとて、本山に達しかの帝釈天は庚申に因あり。又屋根裏より出たるも庚申の日なれば、其日を縁日とせしより次第に近郷の土人信仰なし、江戸にても信ずる者多く、又其像を乞へば板の両面を摺写して与ふ。今仮に本堂に安し、社は未だ造立ならず。其の図次の如し(略)。
弁天社。水神社。
祖師堂。日の出の祖師と号す。日祐の作と云。本尊三寶も仮に此所に安ず。
鬼子母神堂。
三十番神堂。(新編武蔵風土記稿より)

葛飾区寺院調査報告による柴又帝釈天題経寺の縁起

寛永6年(1629)中山法華経寺第19世禅那日忠の開創、その以前から草案の如きものが存したというが、幕域の内外から南北朝・室町時代の題目板碑が多数発掘される。延宝年間法華経寺の塔頭正善房日遼が当寺を兼務して中興開山となる。安永8年(1779)9世日敬のとき、本堂改築に際して、梁の上から日蓮聖人自刻と伝えられる帝釈天像の板木(板本尊)を発見して、本堂に安置した。以来発見の日に因んで庚申の日をもって縁日とし、<柴又の帝釈天>として、江戸や近郷からの参詣者多く、今日に及んでいる。総門には持国・増長ニ天の古像を安置し、板本尊を安置した本堂の法華経説相図浮彫は、客殿のナンテンの床柱とともに著名である。(葛飾区教育委員会 葛飾区寺院調査報告より)

柴又帝釈天題経寺所蔵の文化財

  • 浅間山噴火川流溺死者供養碑(葛飾区文化財)
  • 柴又題経寺帝釈天出現由来碑(葛飾区文化財)
  • 柴又帝釈天大客殿(東京都文化財)

柴又帝釈天題経寺の周辺図