宝珠山与楽寺|賊除地蔵、江戸六阿弥陀、御府内八十八ヶ所
与楽寺の概要
真言宗豊山派寺院の与楽寺は、宝珠山地蔵院と号します。与楽寺の創建年代等は不詳ながら、弘法大師が寺院をこの地に建立したのが始まりだといい、慶安元年(1648)には寺領20石の御朱印状を拝領、京都仁和寺の関東末寺の取締役寺を務めていたといいます。江戸六阿弥陀4番、御府内八十八ヶ所霊場56番札所、豊島八十八ヶ所霊場56番札所、上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場21番札所です。
山号 | 宝珠山 |
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院号 | 地蔵院 |
寺号 | 与楽寺 |
住所 | 北区田端1-25-1 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
与楽寺の縁起
与楽寺の創建年代等は不詳ながら、弘法大師が寺院をこの地に建立したのが始まりだといい、慶安元年(1648)には寺領20石の御朱印状を拝領、京都仁和寺の関東末寺の取締役寺を務めていたといいます。
新編武蔵風土記稿による与楽寺の縁起
(田端村)與楽寺
新義真言宗京都仁和寺末、寶珠山地蔵院と號す、慶安元年八月二十四日寺領二十石の御朱印を賜ふ、本尊地蔵は弘法大師の作なり、昔當寺へ或寄る賊押入し時いつくともなく數多の僧出て賊を防き遂に追退たり、翌朝本尊の足泥に汚れありしかは、是より賊除の地蔵と稱すと傳ふ、開山を秀榮と云。
鐘樓。寶暦元年鑄造の鐘をかく。
阿彌陀堂。本尊は行基の作にて六阿彌陀の第四番なり、六阿彌陀の由来は豊島村西福寺の條に詳なり。
九品佛堂。是も近郷九品阿彌陀佛の内第三番なりと云。
稲荷社。(新編武蔵風土記稿より)
北区文化財案内による与楽寺の縁起
真言宗豊山派。創建年代は不詳。本尊は地蔵菩薩像ですが、現在は秘仏になっています。秘仏というのは、信仰上の理由から、通常は厨子の中に納めて一般に公開しない仏像、菩薩像をいいます。
この地蔵菩薩像は、弘法大師作といわれ、むかし、この寺に、ある夜賊が押し入ったが、多くの僧が出て来て追い払った、翌朝本尊の足が汚れていたので、以来賊除け地蔵と号したという伝説があります(新編武蔵風土記稿)。
この寺は、慶安2年(1649)、20石の朱印を受けています。また、江戸六阿弥陀4番として知られていました。門前向かって左側に巡拝塔がありますが、その左側面に「右は六阿弥陀3番道、左は六阿弥陀4番道」との銘が見えます。これはこの付近の分岐点にあったと推定されます。六阿弥陀3番目とは無量寺のことです。六阿弥陀4番目は与楽寺のことで、この阿弥陀如来像は、境内阿弥陀堂に安置されています。
庭には四面石仏があります。これは、密教によって東西南北に配当された如来を、石塔の四面に彫ったものです。これに康応2年(北朝年号、1390年)の銘がある旨夢跡集に記されているとのことですが、現在は見当たりません。あるいは台石の銘かと思われます。
賊除地蔵尊の伝承地 与楽寺
与楽寺は、江戸時代には二十石の朱印高を拝領する寺院で、境内には四面に仏を浮彫にした南北朝時代の意志の仏塔があります。また、阿弥陀如来は女人成仏の本尊として広く信仰を集め、江戸六阿弥陀参詣の第四番札所ともなっています。本尊の地蔵菩薩は秘仏となっていますが、次のような伝承がありました。
ある夜、盗賊が与楽寺に押し入ろうとしましたが、どこからともなく、多数の僧侶が出て来て盗賊の侵入を防ぎ、遂にこれを追い返してしまいました。翌朝、本尊の地蔵菩薩の足に、泥のついているのが発見され、地蔵菩薩が僧侶となって盗賊を追い出したのだと信じられるようになりました。これより本尊の地蔵菩薩は、賊除地蔵と称されるようになりました。 これが与楽寺の賊除地蔵伝説です。釈迦が入滅してから五十六億七千万年後に弥勒が現れるまでの間は、人々を救済する仏が存在しない時代とされますが、地蔵菩薩は、この時代にみずからの悟りを求め、同時に地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天という六道の迷界に苦しむ人々を救うと信じられてきました。
江戸時代になると地蔵菩薩は、人々の全ての願望を叶える仏として信仰されるようになり、泥足地蔵・子育て地蔵・田植地蔵・延命地蔵・棘抜地蔵というように各種の地蔵伝説が生み出されました。与楽寺の賊除地蔵も、これらの地蔵伝説の一つとして人々の救済願望に支えられて生み出されたものといえます。
与楽寺のもと末寺
与楽寺の周辺図