江東天祖神社|亀戸七福神の福禄寿、柳島総鎮守神明宮
江東天祖神社の概要
江東天祖神社は、江東区亀戸にある天祖神社です。江東天祖神社は、応永2年(1395)に僧良傳が、龍眼寺と共に創建したと伝えられます。古くは柳島総鎮守神明宮と称されていました。柳島村の鎮守、村社を経て、現在に至っており、亀戸七福神の福禄寿としても有名です。境内社の太郎稲荷神社は、筑後立花家下屋敷にあった、立花家の守護神を江戸時代に移したもので、樋口一葉の「たけくらべ」にも出てくる神社です。
社号 | 天祖神社 |
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祭神 | 天照皇大御神 |
相殿 | 宇迦之御魂大神 |
境内社 | 太郎稲荷神社 |
住所 | 江東区亀戸3-38-35 |
備考 | 亀戸七福神の福禄寿、別当寺龍眼寺 |
江東天祖神社の由緒
江東天祖神社は、応永2年(1395)に僧良傳が、龍眼寺と共に創建したと伝えられます。柳島村の鎮守です。
新編武蔵風土記稿による江東天祖神社の由緒
(柳島村)神明社
村の鎮守なり。龍眼寺持。これ龍眼寺開山良傳の告有て得る所にして、聖徳太子の作と云。能く疫病を除く験あるをもて疫病除神明と云。(新編武蔵風土記稿より)
「江東区の民俗城東編」による江東天祖神社の由緒
神社の由緒書(「天祖神社御由緒略記(旧称砂原神明宮)」)によれば、創建は推古天皇の時代で、聖徳太子作の神像を祀るという。『新編武蔵風土記稿』によれば、柳島村の鎮守は神明社で、龍眼寺持であり、龍眼寺開山良博の夢告で得たもので、聖徳太子作といい、災いを除く効験があり、疫病除明神と言われていた。『南葛飾郡神社要覧』によれば、良博は下総国千葉の一族で、新田良興の旗下だった者で、戦乱により神明社が荒れ果てていたのを嘆き悲しみ、里人とはかって応永一〇年(一四〇三)に造営し、天文三年(一五三四)に再建された。天正年間(一五七三~九二)に疫病が広がったところ、織田信長が使いを送り、奉幣をなし、流鏑馬式をとりおこない、ほどなく霊験が顕れた。その後、例大祭のときに神前でこの式を行うようになった。明治初めまでは、正月元旦から七日まで横十問川の堤にある萩寺(龍眼寺)の角に授与所を設け、各町役人年番などが裃を着けて諸人に神明宮疫除神符を授与し、三が日は未明より日没まで群衆が争って拝受したという。
現社殿は大正一〇年に企画され、関東大震災を経て昭和四年に日本最初の防災建築にて竣工した。特徴は内部は総槍造りで、外部鉄筋コソクリートであり、空襲においても社殿のみ焼失をまぬがれ、都内では最古の防災社殿だという。(「江東区の民俗城東編」より)
江東天祖神社の周辺図