富賀岡八幡宮|江東区南砂の神社

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富賀岡八幡宮|富岡八幡宮を最初に勧請した地

富賀岡八幡宮の概要

富賀岡八幡宮は、当社地がもと富岡八幡宮を最初に勧請した所で、寛永年間(1624-1643)の初めに今の深川へ移したと伝えられていることから、寛文5年(1665)に元八幡・富賀岡八幡宮としたといわれています。新編武蔵風土記稿では、当地近くに安置されていた神体僧形が深川の富岡八幡宮に移されたことから、上記の言い伝えが起こったのではないかと記載しています。砂村永代新田の田守稲荷神社を明治43年合祀しました。

富賀岡八幡宮
富賀岡八幡宮の概要
社号 富賀岡八幡宮
祭神 誉田別命
相殿 -
境内社 浅間神社
祭日 -
住所 江東区南砂7-14-18
備考 旧砂村新田の鎮守、もと別当:永代寺



富賀岡八幡宮の由緒

富賀岡八幡宮は、当社地がもと富岡八幡宮を最初に勧請した所で、寛永年間(1624-1643)の初めに今の深川へ移したと伝えられていることから、寛文5年(1665)に元八幡・富賀岡八幡宮としたといわれています。新編武蔵風土記稿では、当地近くに安置されていた神体僧形が深川の富岡八幡宮に移されたことから、上記の言い伝えが起こったのではないかと記載しています。砂村永代新田の田守稲荷神社を明治43年合祀しました。

江東区掲示による富賀岡八幡宮の由緒

元八幡(富賀岡八幡宮)の名称は、一説によると、富岡八幡宮を最初に勧請した所で、寛永年間(1624-1643)の初めに今の深川へ移し、そのため、寛文5年(1665)に旧地を元八幡と称したといわれています。
この付近は松樹が生茂り、前方は広大なる海面で、風光明媚な所であったといわれています。また「江戸名所図会」や、安藤広重の「名所江戸百景」などにも当時の様子が描かれています。(江東区掲示より)

新編武蔵風土記稿による富賀岡八幡宮の由緒

八幡社
村の鎮守とす。土人云当社地は富岡八幡宮を始て勧請せし地にて、寛永の始今の深川の地に引移せしより、彼旧地なればとて、寛文5年八幡を勧請せしかは、元八幡と唱へ、今に永代寺持なり。されど同寺にては寛文の勧請のことのみにて元地たりしことは傳へされど、今深川八幡の神体僧形は弘法大師の作にて、寛永の始まで郡中立石川端等の内に鎮座ありしを、同10年伊奈半十郎の臣興津角左衛門入道玄理寄附せしよし旧記あれば、土人の説の如く始此地に移し祀り、後に今の深川の社地草創して、再び移せし其旧地なるべし。社地は松樹繁り、前面は渺々たつ海面にして景色殊に宜し。
末社。天王、水神、弁天、道祖神、稲荷、秋葉
庵、社守住す。(新編武蔵風土記稿より)

「江東区の民俗城東編」による富賀岡八幡宮の由緒

富賀岡八幡宮(南砂7−14−18)
『新編武蔵風土記稿』巻之二五によれば、この地は富岡八幡宮を初めて勧請した所であり、寛永年間(一六二四~四四)初めに今の深川の地に移った。富岡八幡宮の旧地なので、寛文五年(一六六五)に八幡を勧請し、元八幡という。「神社明細帳」によれば、寛文五年開発の際に除地四反七畝一〇歩拝領し、八幡神社の分霊を鎮祭し、本社の旧殿をこの地に移した。なお、永代寺では元地であるとは伝えていないという。この社のある砂村新田は砂村新四郎が万治二年(一六五九)に開拓した地であり、そのため彼の名字を以て村名としたという。
『東京都神社名鑑』によれば、富岡八幡宮は寛永四年(一六二七)菅原道真後裔といわれる長盛法印が霊夢に感じて八幡宮を創始することになり、永代島周辺の砂州を埋め立て社地と氏子の居住地を開き、総じて六万坪という土地を徳川幕府より拝領したという。『御府内備考続編』巻之六によれば、「葛西志に砂村元八幡宮を当社の旧地なるよし記せども社伝にはなきことなり」と元八幡は富岡八幡宮の旧地という説を否定している。『江東区史』では、富岡八幡宮には二体の八幡神像があり、第一の神像は長盛法印が京都から持ってきたものであり、第二は伊奈氏の家臣から奉納されたもので、富岡八幡宮に奉納される前に砂村の元八幡の地に置かれ、それから富岡八幡に移ったと思われ、富岡八幡宮は砂村から移ったという伝説が生まれたのではないかと推測している。また、富岡八幡宮と区別するために富賀岡八幡宮と賀の字を中に入れているという。明治四三年に砂村永代新田の田守稲荷神社を合祀した。
明治四三年・大正六年の水害、昭和二〇年の大空襲により大きな被害を受け、戦後は仮官を造営、昭和三六年に本殿などが再建された。(「江東区の民俗城東編」より)


富賀岡八幡宮所蔵の文化財

  • 砂町の富士塚(江東区登録文化財)
  • 江戸祭ばやし(江東区登録文化財)

砂町の富士塚

富賀岡八幡宮の富士塚は、江戸時代末の天保4年(1833)までに、富士講のひとつ山吉講によって作られた富士塚です。
江戸時代後半に爆発的に広まり、「江戸八百八講」と称された富士講は、信仰の対象であった富士山のうつしを住居の近くに築きました。富士塚に登ることによって、本山に登山するのと同じ功徳が得られるものと考えたのです。
砂町の富士塚には頂上に向う登山口として、正面(西)に吉田口を、背面(東)に大宮口を、右側面(北)に須走口を作っています。現在では途中までしか行けませんが、中腹を真横に周回できるように中道巡りの道が作られています。右(北)には宝永山を表す小さい高まりを作り、塚の左裾には胎内と呼ぶ横穴を作っています。頂上に登り、富士山の方角を拝すると浅間嶽大日如来碑と対面するようになっています。
塚はもともと30mほど北にありました。当初は土山だったようですが、昭和8年(1933)水害のため形が崩れたので表面を溶岩(伊豆黒ボク石)で固め、昭和37年(1962)現在地に移築されました。
塚に附随している数多くの富士講碑により、現在まで続く富士講の活発な活動をうかがうことができます。(江東区教育委員会掲示より)


富賀岡八幡宮の周辺図