浄心寺|身延弘通所、德川家綱の乳母三沢局が帰依、江戸十祖師
浄心寺の概要
日蓮宗寺院の浄心寺は、法苑山と号します。浄心寺は、日義上人が深川に草庵を営んでいたところ、四代将軍德川家綱の乳母三沢局(法名浄心院妙秀日求大姉、明暦2年寂)の帰依を得、三沢局の遺命により新寺を建立しようとしたものの、日義上人も亡くなってしまい、日義上人に託された日通上人が浄心寺を創建、日義上人を開山としたといいます。德川家綱から寺領100石の御朱印状を拝領、宝暦三年(1753)、身延山の祖師像・七両天女像の出開帳が浄心寺でおこなわれ、その後も数度あり、身延山の弘通所と呼ばれた他、将軍家より十万石の格式を許された、江戸十祖師の随一といわれた名刹です。
山号 | 法苑山 |
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院号 | - |
寺号 | 浄心寺 |
住所 | 江東区平野2-4-25 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 身延弘通所、江戸十祖師 |
※御朱印画像はいけみずさんよりの寄贈
浄心寺の縁起
浄心寺は、日義上人が深川に草庵を営んでいたところ、四代将軍德川家綱の乳母三沢局(法名浄心院妙秀日求大姉、明暦2年寂)の帰依を得、三沢局の遺命により新寺を建立しようとしたものの、日義上人も亡くなってしまい、日義上人に託された日通上人が浄心寺を創建、日義上人を開山としたといいます。德川家綱から寺領100石の御朱印状を拝領、宝暦三年(1753)には身延山の祖師像・七両天女像の出開帳が浄心寺でおこなわれ、その後も数度あり、身延山の弘通所と呼ばれた他、将軍家より十万石の格式を許された、江戸十祖師の随一といわれた名刹です。
「江東区の民俗深川編」による浄心寺の縁起
浄心寺
明暦の少し前に、日義上人は千葉の小西檀林の夏安居を利用して江戸に出て、深川の草庵で読経三昧に明け暮れていた。そこを小堀遠江守宗甫の室お秀の方(通称三沢局)が通りかかり、日義上人に熱心に師事するようになった。のちに三沢局は春日局に付き添って四代将軍となる家綱公(幼名大樹)の乳母を勤めた。三沢局は病にかかり、明暦元年(1655)に乳母を辞し、日義上人に新寺建立を遺命し、明暦二年に亡くなる。上人は局に浄心院妙秀日求大姉の法号を贈り、自分は通遠院日義と名乗る。上人は三沢局の遺命を奉じて小西檀林を辞して、深川の地に永住を決意するも病気となり、学友日通上人を小西から呼び新寺建立を委託して亡くなる。日通上人はお秀の方を開基と定め、日義上人を開山とし自分は第二代と名乗る。家綱は乳母の志に感銘して、浄心寺の建立を許可し、一万畝の寺額・奉一〇〇石・経費として五万両を寛文二年(1662)に寄進する。また、大奥入りしたとき、大奥女中の意志和合を祈って伊勢外宮の豊受大明神を奉祀して、和合稲荷とし毎朝夕にお題目を唱えていた三沢局のために家綱は、浄心寺境内に和合稲荷を建てたという(「法苑山浄心寺縁起」)。
浄心寺は身延山の末寺となり、宝暦三年(1753)、身延山の祖師像・七両天女像の出開帳が浄心寺でおこなわれ、その後も数度あり、身延山の弘通所と呼ばれた。
壮大な境内も、震災・戦災で焼失する。ただ、祖師堂の内陣は明治四〇年に完成した鉄筋コンクリート造りなので、昔の姿を伝えている。なお、浄心寺の住職は世襲ではなく法縁である三百余の寺の住職から選ばれるという。(江東区の民俗深川編より)
浄心寺のもと塔頭
浄心寺は、かつて寺中に8ヶ院の塔頭を擁していました。
浄心寺所蔵の文化財
- 石造燈籠 初代中村歌右衛門奉納
- 石造燈籠 伊達宗村奉納 一対
- 石造燈籠 初代坂東彦三郎・津川哥門他奉納 一対
- 石造宝篋印塔(残欠) 明暦3年在銘
- 木造日蓮上人坐像
- 木造六老僧像 六躯
- 木造日朝上人坐像
- 木造鬼子母神立像
- 木造三宝本尊像
- 木造四菩薩像 四躯
- 木造四天王像 二躯
- 木造文殊・普賢菩薩坐像 二躯
- 銅造梵鐘 鈴木好作
- 梅玉之碑
- 初代清元延寿太夫墓
- 三沢局墓
- 矢部定令墓
- 深川区役所跡
- 洲崎廓追善墓
- 福王家歴代墓
- 水盤
- 法華経供養塔
- 法華経供養塔 日本橋講中奉納
- 法華経供養塔 西川佐助他奉納
- 法華経供養塔 天保2年在銘
- 法華経供養塔 明治14年在銘
- 幟旗台 明治32年在銘 一対
- 百度石 昭和8年在銘
浄心寺の周辺図