東覚寺|江東区亀戸にある真言宗智山派寺院

猫の足あとによる東京都寺社案内

法号山東覚寺|亀戸七福神の弁財天、御府内八十八ヶ所、荒川辺八十八ヶ所

東覚寺の概要

真言宗智山派寺院の東覚寺は、法号山と号します。東覚寺は、玄覚法印が享禄4年(1531)創建したといいます。明治34年に深川本村町の法号山覚王寺と合併、法号山と改号したといいます。亀戸七福神の弁財天、御府内八十八ヶ所霊場73番札所、荒川辺八十八ヶ所霊場75番札所です

東覚寺
東覚寺の概要
山号 法号山
院号 -
寺号 東覚寺
住所 江東区亀戸4-24-1
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 亀戸七福神の弁財天、御府内八十八ヶ所霊場73番札所、荒川辺八十八ヶ所霊場75番札所



東覚寺の案内

東覚寺は、玄覚法印が享禄4年(1531)創建したといいます。明治34年に深川本村町の法号山覚王寺と合併、法号山と改号したといいます。

境内掲示による東覚寺の縁起

東覚寺は享禄4年(1531)玄覚法印の創建と伝えられています。明治34年(1901)覚王寺を合併しました。覚王寺は江東区猿江2-15付近にあり、御府内八十八ヶ所霊場第73番札所で、それを示す碑が東覚寺に残されています。
当時の不動明王は、東大寺別当良弁(689-773)の作で、大山寺(神奈川県)本尊と同木同作といわれ、江戸時代より亀戸不動として信仰をあつめてきました。
亀戸七福神のひとつ(弁財天)として親しまれています。

新編武蔵風土記稿による東覚寺の縁起

東覚寺
新義真言宗寺嶋村蓮花寺末、明王山と号す。
本尊三尊弥陀を安す。
開山玄学、享禄4年の起立云傳ふ。
不動堂、不動は良弁の作。霊験ありしとて正五九の月二十八日開扉し近郷のもの参詣多し。(新編武蔵風土記稿より)

「江東区の民俗城東編」による東覚寺の縁起

東覚寺
『新編武蔵風土記稿』巻之二四によれば、開山は玄学で、享禄四年(一五三一)創立で、境内に不動堂があり、良弁作であり、霊験があり、正・五・九月の開扉には参詣者が多かったという。『江戸名所図会』によれば、享禄四年玄覚法印が住んでいた草庵に笈を背負った優婆塞がやってきて、翌朝、玄覚が仏間に入ろうとして、一人の男が呆然として立っていたのに気付き、尋ねても、何も答えなかった。泊まっていた優婆塞がやってきて、自分が背負ってきた不動尊のくだした罰であろうという。優婆塞が笈の前に脆き、祈ったところ、その男は話せ、身体も自由に動くようになり、自分は盗賊であるとあやまり、もうこれ以上悪事はしないと約束して去った。法印は不思議に思い優婆塞に尋ねると、良弁僧正が相州大山寺を開いたとき、優婆塞の先祖が大山の麓にいて手助けをし、良弁僧正はこの労に謝し、この不動尊を渡し、この像により盗難・剣難からのがれられると告げた。その像は優婆塞の家に伝わり、二五代になり、優婆塞の旅中でも危難をのがれること多かったという。法印はこれを聞いて、この霊像をこの地に止めることを願い、優婆塞もその意に応じて不動尊を玄覚に与えた。そのため、この寺を世の人は盗難除け不動尊と呼び慣わしたという。『城東区史稿』によれば、明治三四年に深川本村町の法号山覚王寺を合併してからは法号山と号するようになった。(「江東区の民俗城東編」より)


東覚寺所蔵の文化財

  • 石造燈籠金森頼時奉納寛永寺旧蔵(江東区登録文化財)
  • 石造五輪塔天保10年在銘(江東区登録文化財)
  • 石造五輪塔元禄13年在銘(江東区登録文化財)
  • 石造宝篋印塔弘法大師千五十年忌(江東区登録文化財)
  • 厨子入木造不動三尊像
  • 是心軒一露居士碑明治32年在銘
  • 不動明王標柱
  • 覚王寺札所碑
  • 庚申塔
  • 観音逆修供養塔
  • 観音供養塔寛文9年在銘

東覚寺の周辺図