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祐天寺|目黒区中目黒にある浄土宗寺院

祐天寺の概要

浄土宗寺院の祐天寺は、明顕山と号します。祐天寺は、祐天上人の高弟祐海上人が、祐天上人を開山と仰いで享保3年(1718)に創建、享保8年(1723)明顕山祐天寺と号しました。勧請開山の祐天上人は、生実大厳寺十五世、飯沼弘経寺三十世、小石川伝通院十七世、大本山三縁山増上寺第三十六世を勤めた大僧正で、徳川吉宗・大岡越前神忠相による町火消し組織も、祐天上人が弘安した消防制「いろは四十八文字」を基にしたものと言われています。

祐天寺
祐天寺の概要
山号 明顕山
院号 -
寺号 祐天寺
住所 目黒区中目黒5-24-53
本尊 阿弥陀如来像
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



祐天寺の縁起

祐天寺は、祐天上人の高弟祐海上人が、祐天上人を開山と仰いで享保3年(1718)に創建、享保8年(1723)明顕山祐天寺と号しました。五代将軍徳川綱吉の息女竹姫より寄進を受けた阿弥陀堂や仁王門、将軍家宣夫人天英院寄進の梵鐘と鐘楼、地蔵堂などが震災火災を逃れて現存しています。

新編武蔵風土記稿による祐天寺の縁起

(中目黒村)祐天寺
境内8530坪、内拝領地2000坪、年貢抱地6530坪村の西の方字原にあり。当寺の拝領地は中下目黒両村にて1000坪づつたまひたれども草創以来当村に属すればここに出せり。浄土宗、芝増上寺末、明顕山善久院と号す。当所は増上寺第三十六世祐天大僧正隠居の地なり。僧正末期に俗弟祐海に属して、当寺を起立せしむ。享保4年祐海遺命を奉じて起立の功を遂げ、僧正を開山として其身は第二世におる。
門。冠木門なり。両柱の間2間。
下馬札・門外にあり、明和3年7月8日土岐美濃守命を傳へて建てしむ。
二王門。表門の正面にあり。5間に2間。明顕山の三字を扁す。左右に力士の像を安ず。
鐘楼。仁王門を入て右にあり。2間半四方、鐘径2尺8寸、高さ5尺。銘末に享保13年と刻す。
本堂。二王門の正面にあり。その間を甍にす。堂は6間に7間。祐天寺の三字を扁す。本尊は祐天大僧正の木像なり。坐像にして長2尺8寸ばかり、前立の像あり、貌長け共に同じ。僧正は明蓮社顕誉上人と号す。陸奥国岩城の農新妻小左衛門と云ものの子なり。幼名を三之助と称す。三縁山の諸化休波和尚は俗縁の伯父たるにより、休波を紹介として、同所袋谷檀通和尚に投じて薙染す。時に正保4年僧正11歳の時なり。長ずるに及で学業怠らず、師檀通に随て諸国を遊行し、道徳日々に盛なり。後三縁山に庵を結び、又葛飾郡牛嶋と云所へ潜隠す。道化大に行はれて僧俗輻輳す。又勢州山田に赴きて念仏を廣む。その後桂昌院殿の召によりて大城に登れり。元禄2年常憲院殿の命を蒙り下総国千葉郡生実大厳寺に住せしめらる。明る庚辰の年同国飯沼弘経寺に転じ、宝永甲甲伝通院に住し、正徳元年増上寺に住し、大僧正となり、分昭院殿の御導師を勤む。程なく隠居して、享保3年7月15日麻布の別業にて寂す。荼毘の中に残りし舌形は今も当寺に持傳へり。本堂の後背に続き9尺四方の堂中に鐘をかく。勤鐘の二字を扁す。鐘の径2尺高4尺、安永7戊戌11月6世祐全と彫る。
客殿。本堂に向て右の方にあり。廊下を設て往来を通ず。この客殿はもと桂昌院殿の御殿なりしを賜りて造りしと云。
阿弥陀堂。門を入て右にあり。寅の方に向ふ。4間に6間。松平大膳太夫法名瑞泰院建立、本尊は座像にて長2尺5寸、堂外に円光大師御遺跡の七字を標出せり、
地蔵堂。阿弥陀堂の向にあり。3間に5間半、申の方に向ふ。開山本地地蔵尊の七字を標す。扁額開山本地堂の五字は穌明にも南無地蔵菩薩の六字を扁し、善久院当寺六世祐全書と落款あり。
阿弥陀堂。地蔵堂の側に有、3間半四方、阿弥陀堂の4字を扁す。当寺二世祐海の落款あり。本尊木佛坐像にて長3尺。
経蔵。同邊にあり。2間半四方。経蔵の二字を扁す。本尊阿弥陀如来坐像にて長2尺5寸。
熊野稲荷合社。9尺に1間、同邊にあり。
裏門。堂後にあり、内に下馬札をたつ。(新編武蔵風土記稿より)

目黒区教育委員会掲示による祐天寺の縁起

祐天寺は、享保3年(1718)祐天上人を開山と仰ぎその高弟祐海上人が創建した寺院です。当時新しい寺院の建立は幕府の厳しい制約があって困難でしたが、祐天上人のかねてからの強い希望と、祐海上人の大変な努力によって、享保8年「明顕山祐天寺」の寺号が許されました。以来、将軍吉宗の浄財喜捨や特別の保護を受けるなど、徳川家と因縁のある寺として栄えてきました。
本堂には、「木造祐天上人坐像」が安置されています。この尊像は、将軍綱吉の息女松姫の寄進で、享保4年大仏師法橋石見の名作です(都指定文化財)。また、祐天寺第二世「祐海上人の木造坐像」(区指定文化財)等が安置されています。
本寺所蔵の「般若心経」1巻、「紺紙金字法華経巻第三」1巻(ともに都指定文化財)の2点は類例の少ない逸品です。
なお、境内には、将軍綱吉息女竹姫寄進の「仁王門」(区指定文化財)および阿弥陀堂や稲荷堂、将軍家家宣夫人天英院寄進の梵鐘と鐘楼、地蔵堂など江戸時代の遺構を伝える建造物のほか、江戸消防ゆかりのもの、かさね供養塚などがあります。
墓地には、「祐天上人の墓」や柳原愛子(大正天皇生母)の墓等の名墓及び「白子組並びに灘目の海難供養碑」などがあります。(目黒区教育委員会掲示より)


祐天寺所蔵の文化財

  • 木造祐天上人坐像(東京都指定文化財)
  • 般若心経1巻(東京都指定文化財)
  • 紺紙金字法華経巻第三1巻(東京都指定文化財)
  • 祐天上人の墓(東京都指定文化財)
  • 祐海上人の木造坐像(目黒区指定文化財)
  • 祐天寺仁王門(目黒区指定文化財)
  • 阿弥陀堂(目黒区指定文化財)
  • 柳原愛子(大正天皇生母)の墓(目黒区指定文化財)
  • 白子組並びに灘目の海難供養碑(目黒区指定文化財)
  • かさね塚

仁王門(目黒区指定文化財)

この仁王門は仁王像とともに、享保20年(1735)の建立で、五代将軍綱吉の息女竹姫が寄進されたものです。
桁行8.5m(28尺)梁間4.3m(14尺)棟高9m(29.6尺)三間一戸八脚門切妻造木瓦葺銅板葺(昭和6年茅葺よりふきかえ)円柱は欅材です。
正面の両脇間に享保20年法橋石見作の仁王像、背面の東脇間に持国天、西脇間に増長天像が安置され、ともに運慶の作と伝えられています。また、中央間の内側には正面に麒麟、背面に海馬の二獣神を配しています。なお、頭貫上の蟇股には十二支が彫られ、方位を示しています。
各虹梁、木鼻、肘木、蟇股に施された渦紋、若葉紋の彫りは力強さを感じさせ、木割、細部絵様等の建築様式の特徴は江戸中期の性格を留めています。
長い年月の間に幾度か修理・改修されていますが、軸部、組物、細部絵様等に変化なく創建当初の姿を保存しています。(目黒区教育委員会掲示より)

阿弥陀堂(目黒区指定文化財)

阿弥陀堂は、五代将軍徳川綱吉の息女竹姫の寄進で、享保9年(1724)4月に上棟されました。同堂は、木割および細部絵様の簡潔でありながらしっかりとした線刻から考察しますと、江戸時代中・後期の特質を留めています。
各棟札の記載事項は、建築様式および沿革から判断して各々建立時や修復時のものであり信頼度の高いものです。また、当阿弥陀堂は幾多の修補・修復が行われたにもかかわらず、回禄祿や倒壊などによる根本的な再造営は、行われなかったものと考えられます。
祐天寺は由緒ある名刹として有名ですが、このお堂は創建時の姿を伝えるものとして仁王門とともに重要なものです。特に常行堂としての扱われ方やその基本的な空間構成は往時のままであり、江戸中期の三間四面堂を知る上で貴重なものです。(目黒区教育委員会掲示より)


木造祐海上人坐像(目黒区指定文化財)

この像は祐天寺2世祐海56歳の姿を写した寿像です。元文2年(1737)に弟子たちが発願し、大仏師法橋石見により製作されました。
本堂に安置され、像高48.3cm。寄木造、彩色、一部金泥塗り、玉眼、円頂、頭部は襟際で挿首。法衣に環付の袈裟をかけ、合掌、趺坐の姿をしています。
祐海自著の銘文が墨書され、文化5年(1808)に祐海の遺言とともに納められました。
江戸時代中期の紀年を有する入念な肖像彫刻として貴重であり、内刳の内部に箔押を施しているのは本尊祐天上人坐像にならったもので、大変珍しい遺例です。(目黒区教育委員会掲示より)

灘目の海難供養碑・白子組の海難供養碑2基(目黒区指定文化財)

江戸時代に「灘なだの樽回船」と、関西の木綿問屋仲間「白子組」の回船が江戸に向かう途中、それぞれ相模灘や駿河湾、遠州灘で台風にあい、たびたび沈没した。
その遭難者のために江戸の商業問屋仲間が建立した海難供養碑である。
いずれも祐天寺住職であった祐全、祐東、自筆の名号が刻まれ、当初から当寺に建てられたものと推定される。
その碑文により、たび重なる海難の事実を知ることが出来る。
また、それぞれの碑は、船籍所在地における史的事実の裏づけがある。
近世における商業経済史、海上輸送史、海難史研究の貴重な資料である。(目黒区教育委員会掲示より)

かさね塚の由来

祐天上人は増上寺第36代の大僧正で徳川家5代~8代まで歴代将軍の帰依を受け、四海に響く名僧であった。
寛文8年の頃、上人飯沼弘経寺に在住の頃、累(かさね)一族の怨霊を化益された事蹟あり。
文政年間、鶴屋南北が歌舞伎に脚色上演し、天下の名作との誉れ高く、上人の遺徳愈々高まる。
大正15年、6世尾上梅幸、15世市村羽左衛門、5世清元延寿太夫等が施主となり、現在地にかさね塚を建立し、累一族の霊を弔い、上人の威徳に浴することになった。
爾来、歌舞伎清元の上演者は必ず、この塚に詣で累一族を供養して興業の無事と、上演の盛会を祈願することが慣習ならわしとなっている。(境内掲示より)


祐天寺の周辺図


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