鈴降稲荷神社|港区赤坂の神社

猫の足あとによる東京都寺社案内

鈴降稲荷神社|旧伊賀町(伊賀組)の鎮守、赤坂氷川神社の境外末社

鈴降稲荷神社の概要

鈴降稲荷神社は、港区赤坂にある稲荷神社です。鈴降稲荷神社は、本能寺の変に際して徳川家康が大阪から三河へ逃れる際、伊賀山中で観音堂の堂主山名孝倫から厨子に納められていた三箇の鈴を受領、無事浜松に戻れたことから、江戸開府後に伊賀の領民を四谷に住まわせて伊賀町(伊賀組)の鎮守社として創建したといいます。元禄8年社地が御用地となり当地へ遷座、大正14年に赤坂氷川神社境内の四合稲荷神社へ合祀されたといいます。

鈴降稲荷神社
鈴降稲荷神社の概要
社号 稲荷神社
祭神 宇迦御魂命
相殿 -
境内社 -
祭日 -
住所 港区赤坂5-1
備考 -



鈴降稲荷神社の由緒

鈴降稲荷神社は、本能寺の変に際して徳川家康が大阪から三河へ逃れる際、伊賀山中で観音堂の堂主山名孝倫から厨子に納められていた三箇の鈴を受領、無事浜松に戻れたことから、江戸開府後に伊賀の領民を四谷に住まわせて伊賀町(伊賀組)の鎮守社として創建したといいます。元禄8年社地が御用地となり当地へ遷座、大正14年に赤坂氷川神社境内の四合稲荷神社へ合祀されたといいます。

境内掲示による鈴降稲荷神社の由緒

鈴降稲荷神社はもと四谷仲殿町にあり、伊賀町、仲殿町一体がその氏子であった。元禄八年、この社地が御用地となったので赤坂一ツ木に替地を給され、ここに遷座奉安された。その折任命された別当は鈴降山神宮寺別当願性院と称え毎年正月四日徳川家の武運長久を祈願したお札を将軍に献上のため登城するならわしがあった。明治十三年社殿類焼に遭い仮殿を建てて神鈴を奉安、更に明治二十五年内陣を土蔵造りとしたが大正十二年の震災で拝殿は大破、土蔵は崩壊したので大正十四年赤坂氷川神社境内稲荷社へ合祀された。今も一ツ木の横町は鈴降横町と称される所以である。
往古からのいいつたえによると朱雀院天台の頃の創設なりとか。花園院正和年中、稲荷の神七歳の童女にのりうつり「我は鈴降宇賀三社の霊神なり、わが持つところの鈴は天降の鈴なり一たび拝する者には家門繁栄ならしめん」と信託あり、よって鈴降の神号とすと。
又一説には天正十年織田信長本能寺の変に遭いし折、京阪にありし徳川家康急遽三河に帰らんとて、伊賀越えの際山中にて道に迷いし時、遥かに鈴の音が聞こえるので、その方向にたどりつくと観音堂あり堂主山名孝倫なる者がいて之を迎え厨子の中より三箇の鈴を取り出し家康に献じ、且つ付近の住民を集めて道案内と警護をしつつ伊賀の白子に出、舟にて海路浜松へ帰ることが出来たという。家康は、此の恩義を徳とし、江戸幕府を開くや、孝倫はじめその折の郷民を江戸に召して、四谷に地を給し、これを伊賀同心組とした。
よって彼等は一宇の祠を建て、さきの鈴を神鈴として鈴降稲荷と号し伊賀組の鎮守としたという。(境内掲示より)

「赤坂區史」による鈴降稲荷神社の由緒

鈴降稲荷神社 もと一ツ木町五十番地鎮座
再板續江戸砂子に云ふ、「鈴降稲荷、赤坂、別當願正院、三寶院派、眞言兼帯修験正宗、現在良閣―(中略)-鎮座は里諺に曰、人皇六十一代朱雀院天台の比より遠境近里の野人神徳を仰ぐ所といひつたへたり。九十四代花園院正和年中稲荷の神七歳の童女にうつり、我は鈴降宇賀三社の靈神なり、持ところの鈴は天降の鈴なり、一たび拝する輩は家門繁榮ならしめむと神託ありしより鈴降の神號あり、此天降の鈴今以て當社の什寶としてあり。」と。また一説に、天正十年、織田信長本能寺の變に遭つた時、京阪遊歴中であつた徳川家康は、急遽歸東を志したが、伊賀の山中に於て途を失ひ、遥かに聞ゆる鈴の音を賴りに、とある観音堂の前に出ると、堂主山名孝倫なる者が之を迎へ、厨子の中から三個の神鈴を取出して家康に献じ、そのまま鈴を捧持して供奉し、且つ更に附近の郷民を招集め、道案内とし、家康を警護しつつ漸く本道に出て、伊賀の白子に至りそれより舟にて海路濱松城へ歸還することが出来た。家康は深くこれを徳とし、其後覇業成るに及んで、孝倫をはじめ其時警護に當つた郷民を江戸に招し、四谷に地を賜り、これを伊賀同心組と稱した。仍て彼等は其地に一宇の祠を建て、さきの神鈴を奉安して、鈴降稲荷と號し、伊賀組の鎮守としたのであるといふ。
文政寺社書上には「一、祭神幷相殿之神、本尊拏枳尼天木像壹尺六寸、天降之鈴三ツ但し金之生不相知云々」とある。
當社は初め四谷仲殿町にあり、よつて伊賀町仲殿町の邊は一帶にその氏子であつた。しかるに元禄八亥年、社地が御用地となつたゝめ、赤坂新町(今の一ツ木町)の、西尾隠州侯屋敷の上ヶ地に社地を賜ひ、社殿を建立し此處に遷座奉安した。この時新に任命された別當は、鈴降山神宮寺別當願性院と稱へ、毎年正月四日、武運長久祈願の御札献上として院の別當が登城したものであつた。しかるに明治に入つて同十三年の冬、社殿が類焼したので、假殿を建設して神鈴を奉安し、更に二十五年十一月この假殿を改修し内陣を土蔵造りとなし、永久的構造に改めたるも、大正十二年の大震災に拝殿は大破し、土蔵は崩壊し、復舊維持が困難となつたため、同十四年氷川神社境内の稲荷社へ合祀されたものである。(「赤坂區史」より)


鈴降稲荷神社の周辺図


参考資料

  • 「赤坂區史」