東禅寺|港区高輪にある臨済宗妙心寺派寺院、臨済宗妙心寺派触頭

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佛日山東禅寺|臨済宗妙心寺派触頭四ヶ寺、日向飫肥城主伊東祐慶が開基

東禅寺の概要

臨済宗妙心寺派の東禅寺は、佛日山と号します。東禅寺は、日向飫肥城主伊東祐慶が開基、嶺南宗六禅師が開山となり、慶長15年(1610年)赤坂溜池に嶺南庵と号して創建、寛永13年(1636年)当地へ移転して東禅寺と改めたといいます。江戸時代には、麟祥院海禅寺松源寺と共に臨済宗妙心寺派の江戸触頭四ヶ寺を勤めていた他、江戸末期には初のイギリス行使宿館が当寺におかれました。

東禅寺
東禅寺の概要
山号 佛日山
院号 -
寺号 東禅寺
住所 港区高輪3-16-16
宗派 臨済宗妙心寺派
葬儀・墓地 -
備考 臨済宗妙心寺派触頭



東禅寺の縁起

東禅寺は、日向飫肥城主伊東祐慶が開基、嶺南宗六禅師が開山となり、慶長15年(1610年)赤坂溜池に嶺南庵と号して創建、寛永13年(1636年)当地へ移転して東禅寺と改めたといいます。江戸時代には、麟祥院海禅寺松源寺と共に臨済宗妙心寺派の江戸触頭四ヶ寺を勤めていた他、江戸末期には初のイギリス行使宿館が当寺におかれました。

「芝區誌」による東禅寺の縁起

東禅寺
佛日山と號し、臨済宗妙心寺派禅徒の觸頭で、東都四ヶ寺の一である。慶長十五年僧嶺南が溜池の上に嶺南庵を草創し、寛永十三年此地に移って東禅寺と改稱した。開山は嶺南宗六禅師、開基は日向飫肥の城主伊東祐慶である。天保十四年の舊幕府書類に、「寺門坪数一萬三千九百九十八坪、大門通横九間一尺、坪數合千百四坪、御年貢地八百十四坪(内賃銀附七十二坪)、寺内門通惣合坪數一萬四千八百十二坪なり。外借地百坪にて高輪天台宗安泰寺持八幡社地の内。」とあるのを見ると、其寺域の廣かつたことがわかる。元寺中に興聖院、松壽院、宗法院、心源院の四院があつたが、今はただ心源院を存するのみである。幕府瓦解後は次第に衰へて、其山門の如きも腐朽甚しく、明治九年遂に崩壊した。其山門に掲げた「海上禅林」の額は朝鮮人國雪峰が来聘した時執筆を委嘱せられ、歸國後十二年を経て、十二葉を書いて送つて来たものを彫刻したものであるが、今は同じ文字が堂宇に掲げられてゐる。墓地は樹木深く茂り、市街地とは思へぬほどの寂しさ、蛇などの這つてゐるのも都會地では珍らしい。寺内には有名な墓塋が多い。左に寺寶の重なものを擧げる。
大應大燈兩國師諸二幅
天目山中峰國師諸一幅
一休禅師書一幅
李嵩筆壽老人像一幅
狩野探幽筆出山佛達磨宋雲黄檗臨済圖三幅
兆殿司筆羅漢像三幅
慶書記筆文殊像一幅
狩野探幽筆荘子菊牡丹之圖三幅
菅原道真公自畫像一幅
珊瑚珠數一連
古交趾焼大香爐一口
古琉玖製大重筐二重
青磁焼香爐一口
朝鮮雪峰筆海上禅林の大額一面
本寺はまた安政、萬延、文久の頃には、幕府から外國人の宿寺と定められた。中にも安政六年五月二十六日、英國船一隻が品川に入津して本條約を結び、英國公使館を假に本寺に置いたことは、幕末外交史上顕著の事である。當時寺内には十箇所の番所を設け、護衛の士を配置して、日夜交代に警護したが、それは幕府のしたことで、寺は只だ幕命で一區割を英國公使館に貸與したに過ぎず、外人の接待一切は幕吏が司つたから、住職は僅かに一二回公使に面謁したのみで、遂に交際を結ぶに至らなかつた。けれども其時は攘夷熱の高潮に達した時であつたから、檀徒の中には激昂するものが多く、歴代の靈碑は汝等に託されないといつて、或大名の如きは靈殿を毀つてそれを持ち去つたといふ。かうした次第で英國公使館は、文久元年には水戸藩の浪士に、同二年には松本藩の藩士に襲撃されるに至つた。(「芝區誌」より)

東禅寺所蔵の文化財

  • 最初のイギリス公使宿館跡(東京都指定文化財)
  • 羅漢図(港区指定有形文化財)
  • 紙本墨画寒山拾得図(港区指定有形文化財)
  • 大槻玄沢埋葬の地(港区指定旧跡)

最初のイギリス公使宿館跡

安政5年(1858)7月に帰結された日英通商条約により、翌6年6月6日、イギリス初代公使オールコックらがここに駐在し、わが国最初のイギリス公使宿館となった。文久元年(1811)5月28日夜、水戸浪士の襲撃事件、同2年5月29日夜警固士のイギリス人殺傷事件があったが、明治6年(1873)ごろまで使用された。
当時、公使館にしようされたのは大厳間および書院と奥書院であったが、現在その一部である奥書院(5.4x9.0m)と玄関が旧時のままよく保存されており、そのほかは昭和初年に改築された。(東京都教育委員会掲示より)


東禅寺の周辺図


参考資料

  • 「芝區誌」