一山稲荷神社|練馬区富士見台の神社

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一山稲荷神社|谷原村内の増島氏を中心に村民が社殿を造営、嶽一山講

一山稲荷神社の概要

一山稲荷神社は、練馬区富士見台にある稲荷神社です。一山稲荷神社は、享保2年(1717)稲荷大神を奉斎、谷原村内の増島氏を中心に村民が社殿を造営したといいます。文政年間(18181-1830)には御嶽一山講が設立され、崇敬者、村民が共に維持経営にあたったといいます。

一山稲荷神社
一山稲荷神社の概要
社号 稲荷神社
祭神 字気母知命
相殿 須佐之男命・大穴牟遅神・少名毘古那神
境内社 一山神社
住所 練馬区富士見台3-42
備考 -



一山稲荷神社の由緒

一山稲荷神社は、享保2年(1717)稲荷大神を奉斎、谷原村内の増島氏を中心に村民が社殿を造営したといいます。文政年間(18181-1830)には御嶽一山講が設立され、崇敬者、村民が共に維持経営にあたったといいます。

「練馬の神社」による一山稲荷神社の由緒

『北豊島郡神社誌』に「由緒不詳ナルモ、徳川時代ノ創立ニシテ、世人ノ崇敬厚ク、近郷ノ豊多摩郡、埼玉県等ヨリ参詣スル信者多ク以テ今日ノ隆盛ヲ見ルニ至レリ。」とある。口伝によると、享保二年(一七一七)稲荷大神を奉斎し、谷原村内の増島氏を中心に村民が社殿を造営、文政年間(一八一八-三〇)には御嶽一山講が設立され、崇敬者、村民が共に維持経営に当ったという。社殿には稲荷神社を中央に、左右に須賀神社、御嶽神社の三つの掲額がある。一山講は明治に入ると盛んになり、その先達を務めたのが増島大傳である。大傳は谷原村の旧家増島氏の出で、明治八年(一八七五)当社境内に一山神社を建て、布教に励んだ。その結果二代目先達の時には八百人の講員を数えたという。
境内石造物で古いのは明治七年(一八七四)の水盤、翌八年の燈寵と大傳を記念した聖庵大安縛大傳の碑である。社殿は稲荷神社改築記念碑から昭和四八年(一九七三)の建築であることが分る。境内には御嶽信仰の大きな碑が並び建ち、三社大神碑は地所奉納の碑である。昭和三三年(一九五八)の戦役者慰霊碑には四一名の戦役者名が刻まれている。
なお、一山神社の拝殿内には七枚ほどの絵馬があり、明治一三年(一八八〇)のものが一番古い。また、神輿庫には大小五基の神輿が納められている。(「練馬の神社」より)

練馬区教育委員会掲示による一山稲荷神社の由緒

当社は、社伝によると江戸時代の創建といいます。祭神は宇気母知命、相殿に須賀神社と御嶽神社をまつります。
境内社に一山社があるので、地元では「一山様」とか「谷原のおんたけさん」の名で知られています。
幕末の江戸を中心によろまった木曽御嶽に対する信仰、特に一山行者が講祖と「なって組織さいた一山講は、明治に入って当地でも盛んとなりました。その先達をつとめたのは増島大伝です。大伝は谷原村の旧家・増島氏の出で、練馬の各地に御嶽信仰をひろめました。
明治八年、大伝は本社境内に一山社を建立し布教にはげみ、その結果、盛時には講員八〇〇人を数えたといいます。一山社の拝殿内には明治以降の絵馬数枚があります。
また、境内には大伝の記念碑があります。
神社は石神井川を西北に望む台地上にあり、かつてここは眼下に水田が広がり、かなたに長命寺の杜を見わたせる景勝の地でありました。(練馬区教育委員会掲示より)

「東京都神社名鑑」による一山稲荷神社の由緒

創立年月日は不詳。古老の言い伝えには、享保二年(一七一七)九月、稲荷大神を奉斎し、村内の増島氏を中心に村民が社殿を造営、文政年間(一八一八-三七)には御獄一山講が設立され、崇敬者・村民がともに維持経営にあたり、また増島氏は北条一族の末裔で伊豆韮山城主であったが、北条氏滅亡後、この地へ移り農民となって定住したと伝わる。増島氏子孫は連綿として現在も当地に住居している。(「東京都神社名鑑」より)


一山稲荷神社所蔵の文化財

  • 御嶽講奉納の水盤(練馬区登録有形民俗文化財)

御嶽講奉納の水盤

谷原村、上練馬村の御嶽講の一員によって、明治七年(一八七四)に奉納された水盤です。正面に長野県の木曽御嶽山を信仰する御嶽講の一つである一山講は、明治に入って当地でも盛んになりました。
向かって左側面に講の世話人の氏名とともに、先達をつとめ当地に御嶽信仰を広めた増嶋大伝の名前が刻まれています。(練馬区教育委員会掲示より)

一山稲荷神社の周辺図

参考資料

  • 「練馬の神社」(練馬区教育委員会)
  • 「東京都神社名鑑」