金乗院|練馬区錦にある真言宗豊山派寺院

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如意山金乗院|豊島八十八ヶ所霊場

金乗院の概要

真言宗豊山派寺院の金乗院は、如意山萬徳寺と号します。金乗院は、名主木下大炊之輔が開基となり、僧行栄が文禄年間(1592-6)に建立したといいます。慶安2年(1649)には3代将軍徳川家光より寺領18石9斗余の御朱印状を拝領、近隣に末寺を擁する中本寺格の寺院でした。延宝5年(1677)に徳川綱吉が脚症の静養のために御殿(徳川綱吉御殿跡)を構えて住んでいた際には、御殿に度々伺候していたことから、徳川綱吉の江戸城帰城後には、御殿を拝領、その材木で寺観を一新したといいます。文久元年(1861)門前にあった須賀神社の祭りの時火災に遭い全焼、昭和32年に再建しました。

金乗院
金乗院の概要
山号 如意山
院号 金乗院
寺号 萬徳寺
住所 練馬区錦2-4-28
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 豊島八十八ヶ所霊場32番札所



金乗院の縁起

金乗院は、名主木下大炊之輔が開基となり、僧行栄が文禄年間(1592-6)に建立したといいます。慶安2年(1649)には3代将軍徳川家光より寺領18石9斗余の御朱印状を拝領、近隣に末寺を擁する中本寺格の寺院でした。延宝5年(1677)に徳川綱吉が脚症の静養のために御殿を構えて住んでいた際には、御殿(徳川綱吉御殿跡)に度々伺候していたことから、徳川綱吉の江戸城帰城後には、御殿を拝領、その材木で寺観を一新したといいます。文久元年(1861)門前にあった須賀神社の祭りの時火災に遭い全焼、昭和32年に再建しました。

練馬区教育委員会掲示による金乗院の縁起

金乗院は、如意山金乗院萬徳寺といい、真言宗豊山派の寺で本尊は愛染明王です(豊島八十八ヶ所霊場第32番札所)。
「新編武蔵風土記稿」によると、開山僧は行栄、開基は大木大炊介。慶安2年(1649)には寺領18石9斗余の御朱印を賜りました。寺の沿革によれば、僧行栄が文禄年間(1592-6)に開いたと記されています。
山門は三代将軍徳川家光公使用の門、本堂前のイチョウも将軍お手植えと伝えられています。墓地には下練馬村名主、内田家や木下家の墓があります。(練馬区教育委員会掲示より)

「練馬の寺院」による金乗院の縁起

「新編武蔵風土記稿」に「金乗院 新義真言宗。大和国初瀬小池坊末。如意山萬徳寺ト号ス。本尊愛染ヲ安ス。又不動ヲ置リ。コハ古ノ本尊ト云。寺領18石9斗余ノ御朱印ハ。慶安2年11月17日賜ヘリ。開山行栄。元和3年5月27日寂ス。開基ヲ木下大炊介ト云。慶長17年8月24日死シ。法名光明院台法道巌ト云者残レリ。」とある。
金乗院沿革によると、僧行栄が文禄年間(1592-6)に建立したと言われる。文久元年(1861)に、現平和台1丁目にある須賀神社が当時金乗院前にあり、その祭りの日に火災に見舞われ、本尊を除いて全部が焼失したため、すべてがはっきりしない。その後、末寺明王山松林寺(現自衛隊西側、墓地だけが残っている)に本堂を移して昭和29年(1954)まで仮本堂として使用していたが、昭和32年(1957)鉄筋コンクリート造りの本堂を建立して今日に至っている。
慶安2年(1649)11月、三代将軍家光公より18石9斗の御朱印を賜った中本寺格の寺であった。明治維新までに、清性寺(北町2-41にあった)、阿弥陀堂(北町2-18、現存)、威徳院(豊島園附近にあった)、松林寺、高徳寺(北町5丁目歩道橋附近にあった)、東林寺(金乗院門前にあった)等を合併した。
現存する円明院光伝寺荘厳寺等は第二次大戦までは当寺の末寺であった。(「練馬の寺院」より)

「北豊島郡誌」による金乗院の縁起

下練馬村
【金乗院】字本村に在り新義眞言宗豊山派に属し、始は眞堂と稱する一小庵室なり、文禄年中僧行榮郷士木下大炊之輔と謀り堂宇を建て、如意山満徳寺金乗院と號す、慶安二年三代将軍徳川家光此地に放鷹せらる、偶驟雨あり憩ふに家なし、即ち此寺に入る、寺僧款待甚だ懇切なり、家光大に喜び、歸城に際し與ふるに金品を以てし、又希望を問はしむ、寺僧依りて村内の格寺を總て眞言宗とし、其本寺たるの寺格を賜はらんことを望む、家光直に之れを容れ、和州初瀬小池坊の直末に列し、尚寺領十八石九斗餘の朱印地を賜はり、後延寶年中徳川綱吉本村に住し賜ふや、時の住僧和漢の學に通ずるを以て、常に殿中に伺候し、能く其徒然を慰む、綱吉大に之れを喜び、後将軍に任ずるや其邸宅を以て住僧に與ふ、住僧其材を以て本寺を改築す、後文久元年六月十日火あり、堂宇記録悉く烏有に歸す、御朱印箱僅に灰燼を免るを得たりと云ふ、今域内に御朱印地の碑あり。(「北豊島郡誌」より)

新編武蔵風土記稿による金乗院の縁起

(下練馬村)金乗院
新義眞言宗大和國初瀬小池坊末、如意山萬徳寺と號す、本尊愛染を安す、又不動を置りこは古の本尊と云、寺領十八石九斗餘の御朱印は慶安二年十一月十七日賜へり、開山行榮元和三年五月廿七日寂す、開基を木下大炊介と云、慶長十七年八月二十四日死し、法名光明院臺法道嚴と號す、子孫世々當村の農民なりしか後年廢家となり、今其分家作左衛門と云者殘れり、
八幡社
牛頭天王
閻魔堂
鐘樓。元禄十一年七月鑄造の鐘をかく、側に椎木あり三圍許(新編武蔵風土記稿示より)


金乗院所蔵の文化財

  • 金乗院の一石六地蔵(練馬区登録有形民俗文化財)
  • 金乗院の御朱印状(練馬区指定有形文化財)

金乗院の一石六地蔵(平成6年3月登録)

明暦2年(1656)銘。船形の石に六地蔵が浮き彫りされている月待供養塔です。

金乗院の朱印状(平成9年3月登録)

三代将軍家光から14代将軍家茂(万延元年・1860)までの寺領18石9斗余を安堵した古文書。(非公開)

金乗院の周辺図

参考資料

  • 練馬の寺院(練馬区教育委員会)
  • 「北豊島郡誌」
  • 新編武蔵風土記稿