広徳寺|練馬区桜台にある臨済宗大徳寺派寺院

猫の足あとによる東京都寺社案内

円満山広徳寺|ビックリ下谷の広徳寺、昭和53年に移転を完了

広徳寺の概要

臨済宗大徳寺派の広徳寺は、円満山広徳寺と号します。広徳寺は、箱根湯本早雲寺の子院として、元亀、天正の頃(1570-92)小田原に建立されました。天正18年(1590)徳川家康に招かれ、神田昌平橋の内に広徳寺と称して建立、寛永12年(1635)下谷の地(廣徳禅寺遺趾)へ移転しました。下谷での寺地は広大で、現台東区役所・旧下谷小事校の地付近一帯を擁し、江戸時代には「ビックリ下谷の広徳寺…」と隆盛し、加賀前田家をはじめ、峰須賀・毛利・小笠原・など18もの大名家を檀家に持ち、塔頭15院を擁していましたが、明治維新後衰退、関東大震災後の区画整理も重なり、当地へ徐々に移転、昭和53年に移転を完了しました。旧地の下谷には、徳雲院宋雲院の2院が現存しています。(広徳寺境内は参詣謝絶です)

広徳寺
広徳寺の概要
山号 円満山
院号 -
寺号 広徳寺
住所 練馬区桜台6-20-19
宗派 臨済宗大徳寺派
葬儀・墓地 -
備考 参詣謝絶



広徳寺の縁起

広徳寺は、箱根湯本早雲寺の子院として、元亀、天正の頃(1570-92)小田原に建立されました。天正18年(1590)徳川家康に招かれ、神田昌平橋の内に広徳寺と称して建立、寛永12年(1635)下谷の地(廣徳禅寺遺趾)へ移転しました。下谷での寺地は広大で、現台東区役所・旧下谷小事校の地付近一帯を擁し、江戸時代には「ビックリ下谷の広徳寺…」と隆盛し、加賀前田家をはじめ、峰須賀・毛利・小笠原・など18もの大名家を檀家に持ち、塔頭15院を擁していましたが、明治維新後衰退、関東大震災後の区画整理も重なり、当地へ徐々に移転、昭和53年に移転を完了しました。旧地の下谷には、徳雲院宋雲院の2院が現存しています。(広徳寺境内は参詣謝絶です)

「練馬の寺院」による広徳寺の縁起

「広徳寺誌」によれば、広徳寺は、はじめ箱根湯本にある後北条氏の菩提所早雲寺の子院として、元亀、天正の頃(1570-92)小田原に建立された。岩槻城主北条氏房が義父太田資正(太田道灌の末裔で北条氏康の女婿)の菩提を弔うために建立。氏房は幼少より心を寄せていた希叟を開山師に請うじたが、希叟はその師の明叟を勧請して開祖とし、自ら二世となった。後北条氏滅亡後家康は天正18年(1590)希叟を江戸に招き、神田昌平橋の内に寺域を寄進した。一宇の茅堂を建てた希叟は後北条氏の恩顧に報いるため広徳寺と称した。寛永12年(1635)神田より下谷に移転している。
江戸時代はとくに諸藩主・旗本等の帰依をうけ、それらの香華所として、また同時に宿院としての塔頭が15院もできており、江戸の俚諺に「ビックリ下谷の広徳寺…」といわれるほど、江戸屈指の名刹となり、幕府から毎年御蔵米50俵を給付されていた。しかし明治に入り、神仏分離、廃仏毀釈の旋風が寺院を吹きまくり、塔頭も廃院同様となり、かろうじて4院を残すのみとなった。さらに関東大震災で堂宇ことごとく焼失した。そこで練馬に約10000坪の土地を購入し、墓地の移転を行うと同時に、塔頭であったところの円照院(円照院練馬別院)を復興させ、広徳寺別院をつくった(大正14年、円照院は小笠原信濃守忠脩の宿院)。
昭和53年、円照院は、下谷の本寺広徳寺が当地に移転してきたので、秩父の両神村に移った。
この地は石神井川に沿う高台で、眺望がよく、ナラやケヤキ、松の樹木がよく茂り禅寺にふさわしい静寂そのものである。本堂の裏には広徳寺共葬墓地があり、柳生但馬守一族をはじめ、会津藩主松平氏、柏原藩織田氏、阿波藩蜂須賀氏等、旧大名の墓石が偉観を示している。(「練馬区の寺院」より)

練馬区教育委員会掲示による広徳寺の縁起

北条氏政の子、岩槻城主太田氏房が明叟和尚を小田原に招き、早雲寺の子院として開山したのが創建で、小田原城落城(1590)の際、焼失したと伝えられています。その後、徳川家康が二世希叟和尚を江戸神田に招き再興しました。寛永12年(1635)には下谷に移り、加賀前田家をはじめ諸大名を檀家とする江戸屈指の大寺院となりました。しかし関東大震災で寺域は焼失し、その後の区画整理のため、大正14年(1925)からこの地に墓地を移し、別院としました。昭和46年には本坊も写し、平成2年の開山明叟和尚400遠年諱を記念して、庫裡、位牌堂を建て替え、現在のたたずまいとなりました。
墓地には、剣法の指南役として有名な柳生宗矩、三厳(十兵衛)父子の墓や将軍家茶道指南役で庭園築造にも事蹟のあった小堀遠州の墓(茶人らしい笠付棗形の墓石)があります。三厳と遠州は沢庵禅師を通じて禅にも深い理解がありました。
その他、文禄・慶長の役で活躍した立花宗茂や、江戸時代の詩人菊池五山、菊池秋峯、大内熊耳など、大名、学者、文人の墓所が数多くあります。
ここは禅の修行場でもあります。寺域内では静寂に心がけてください。(練馬区教育委員会掲示より)

「下谷區史」による広徳寺の縁起

廣徳寺(北稲荷町五二番地)
京都大徳寺末、圓満山と號す。本尊釋迦如来。始め相模國小田原(湯本村ともいふ)にあり、開基は武蔵岩槻城主太田源五郎。(天正十年七月八日卒、廣徳寺殿功林動公大禅定門と謚す)開山は僧明叟宗普(天正十八年四月十五日寂)である。第二世希叟宗罕、徳川家康の歸依を受け文禄二年四月江戸昌平橋内に寺地一萬坪を給せられて移り、(江戸砂子、江戸名所圖會等の諸書みな希叟を以て開山としてゐるが今は寺傳に從ふ)寛永十二年四月、同所幕府用地となるや、替地を給せられて現地に轉じた。慶長見聞集に、當時名ある寺として、増上寺吉祥寺彌勒寺、本願寺等と共にその名を擧げられてゐるから夙に有名であつたことが知られる。而して品川東海寺澁谷祥雲寺と共に大徳寺派江戸三刹と呼ばれ,江戸城に登域の際は乗輿獨禮格で、檀家に前田(三家)、峰須賀、毛利、小笠原、立花、松浦、細川(分家)、柳生、織田、秋月、松平、小出、加々爪等十八の大小名家あり、塔頭、徳雲院、桂徳院、宋雲院、梅雲院、長春院、永壽院、圓照院、桂香院、通玄院、貞空院、慈眼庵の十院一庵を數へたが、明治維新の際、梅雲、長春、永壽、桂香、通玄、貞空六院と慈眼庵は廢絶し、徳雲桂徳宋雲、圓照四院は各獨立した。そして大正十二年九月の大震火災に類焼するや、圓照院は本寺墓地と共に板橋区下練馬に移り、本寺(本寺の本堂、玄關等は本郷本富士町の前田侯爵家が駒揚移轉に際して、その舊邸玄関を寄する所である)及び他の三院は現地に復興建築せられた。維新の塔頭廢絶以来貸地、市區改正等の理由により漸次縮小しつゝあった境内は、墓地の移轉に伴ひ、更にその跡に下谷區役所、下谷尋常小事校等の建築せられるあり、かの江戸名所圖會に見るが如き、昔日の悌を偲ぶべくもない。有名な柳生宗矩、同三嚴、加々爪忠澄、立花宗茂、菊池五山、大内熊耳、小野おづう等の墓も見るを得なくなった。
大正癸亥震災以前の當寺の門は寸尺足らずの門として古来有名であった。寸尺不足といふことは寺に於ては否定し、且つその異否はこの門が江戸域西丸の門を下付せられたとも、加賀前田家の寄進するところともいひ、(恐らくは後者であらう)その設區々たるのと共に記録焼失の今に於ては明らかでないが東遊記に次のやうな興味ある傳説が記されてゐる。
(伝説中略)
之はこの門が比較的丈の低いのと、明暦、明和の大火に全都焦土となり、當寺も亦その災禍を免れなかったにも拘らず門のみ獨り殘ったところから生じた傳設であらう。そして建築した大工は浅草諏訪町の政五郎といふ棟梁であると、大工の名まで出来、政五郎は飛騨の山奥から修業に来てゐた左甚五郎に圖を引かしめたが、甚五郎が母の病を省して不在中、弟子大工の疎忽にて柱を一尺切損じたのを後に發見して、政五郎は大いに之を愧ぢて自殺したといふ風にまで擴大せられたが、この門は不思議にもこの後安政大震の際にも異状なく、明治に至り市區改正に際して少しく引込められたのであるが、大正癸亥の大震火災には遂に焼失を免れなかったのは惜むべきである。(「下谷區史」より)


広徳寺旧子院

新編武蔵風土記稿には寺中子院10ヶ院が記されています。


広徳寺所蔵の文化財

  • 紙本着色以天宗清像
  • 絹本着色明叟宗普像
  • 紙本墨淡彩希叟宗罕像
  • 明叟宗普の墨跡
  • 絹本着色釈迦十六善神像

広徳寺の周辺図

参考資料

  • 練馬の寺院(練馬区教育委員会)
  • 「下谷區史」