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厳正寺|大田区大森東にある浄土真宗本願寺派寺院

厳正寺の概要

浄土真宗本願寺派寺院の厳正寺は、柳紅山と号します。厳正寺は、北条重時(1198-1261)の六男である法円が文永9年(1272)に海岸寺として創建、二世法密は密教を究め当地に伝わる獅子舞(水止舞)を教授したといいます。第六世了意が浄土真宗に改宗、十世祐智は石山本願寺に赴き織田信長との戦に参戦、十一世祐惠が寺号を厳正寺と改めたといいます。

厳正寺
厳正寺の概要
山号 柳紅山
院号 -
寺号 厳正寺
住所 大田区大森東3-7-27
本尊 木像阿弥陀如来立像
宗派 浄土真宗本願寺派
葬儀・墓地 -
備考 大森幼稚園併設



厳正寺の縁起

厳正寺は、北条重時(1198-1261)の六男である法円が文永9年(1272)に海岸寺として創建、二世法密は密教を究め当地に伝わる獅子舞(水止舞)を教授したといいます。第六世了意が浄土真宗に改宗、十世祐智は石山本願寺に赴き織田信長との戦に参戦、十一世祐惠が寺号を厳正寺と改めたといいます。

「大田区の寺院」による厳正寺の縁起

由緒によれば、開創は文永9年(1272)北条重時(1198-1261)の六男といわれる法円で、当時は海岸寺と号した。二世法密の頃、元享元年(1321)の旱魃に雨を祈って降らせたが、同3年(1323)50余日に及ぶ長雨に、今度は止雨を祈祷した。この時、里人に獅子舞を演じさせたのが伝承されて、水止舞と呼ばれ、昭和38年(1963)都・重宝(郷土芸能)に指定された。十世祐智は石山に参り、同8年まで織田氏と戦った。十一世祐惠は寺号を厳正寺と改めた。なお、この地に当寺を建てる前、大井神明の字蛇窪(註:上神明天祖神社周辺)に草庵を結んだ、との寺伝があり、現在も同地に檀家が残っている。(「大田区の寺院」より)

新編武蔵風土記稿による厳正寺の縁起

(大森村)厳正寺
除地三段四畝十二歩、村の東の方にあり、東大森村に属せり、浄土真宗、江戸麻布善福寺末、柳紅山と号す、開山法圓上人文永九年八月十二日開闢す、昔は海岸寺と号せしを、祐惠上人の時今の寺号に改めしことは下文に出せり、寺伝云、法圓上人は北条陸奥守重時の五男にして、幼名を時千代といふ、箱根別当所にて薙染して名を重圓と改む、寛元元年の春叡山に登り、両界秘密の灌頂を承け、十八歳の春より南北に名師を尋ね、名を法圓と改め、浄土の教を奉ず。当寺を草創の後寺務三十年を歴て、正安三年二月十五日七十三歳にして寂すと、按ずるに北条系図に重時六男一女ありて法圓を載せず、幼稚にして出家せしにより略して記さざる歟、第二世法密上人は法圓の兄左近太夫茂時の子なりといふ、茂時も系図には見えず、重時の子に赤橋太夫、将監長時、鹽田左近将監義政二人ともに男子一人ありて、法密のことは見えず、法密ははやく密教を奉持して奥旨を究めたり、其法力により当所旱魃の時雨を祈り、霧雨の時雨を祈りしに、験をえざる事なければ、土人呼て権化の聖人とぞ云ける。第三世は法樹聖人貞治四年十月寂す、四世法善は明徳元年二月寂す、五世法性上人は赤橋相模守盛時の支族なりと云、盛時がことも系図に載ず惟赤橋相模守長時、及びその孫相模守久時あり、盛時はもし是らの内の初の名にや、法性は応永三十一年寂せり、第六世了意は法性の兄赤橋権大夫重祐の子なり、応永二十八年十一月京都へ遊学し、大谷本願寺存如上人の説法を聞て、終に真宗の奥旨を聴き、存如の門に入てその教を受ること三年に及ぶ、時に叔父法性入滅せしと聞て、故郷に帰り当寺に来りしに、法性の遺命ありて寺務を相続す、是より宗旨を改て真宗とはなれり、開山よりこのかた浄教を奉ぜしことすべて百三十年に及べり。了意は応仁二年四月寂す、それより第七世了祐、第八世祐圓、第九世祐良にいたるまで、三代は血脈相続せり、永禄十年祐良寂して後嗣子なきにより、祐智といふ上人を養子とす。祐智本姓は平氏なり、元亀元年織田信長本願寺と合戦の時、己が門徒をひき具してぞ大阪へ馳上り、数度の軍功あり、其後天正十七年小田原北条家本願寺の門徒をにくみ、寺々の分国にあり限りは破却せんとす、祐智いかにもしてこの難を遁れんとせしに、剰へ時の代官行方修理亮深く法華宗に帰依し、他宗をにくみ、近郷の寺院を没収し、財費を奪ひとり、盡く法華宗派の寺院に寄附す、此時寶物をも過半失へり、しかのみならず明る十八年二月房州の里見義隆、按ずるに「里見家譜」に義隆と云人は見えず、義堯を誤りしるせし歟、されども義堯にては年代たがへり、義頼なるべし、当所へおし渡り、神社寺院以下を焼討にし、又家財雑具をも奪ひとりしかば、わづかに残りし財費をも此ときことごとく失へり、今いささか寺寶の存するは、家族弥五郎と云ものかひがひしく持去しものなり。此後祐智は慶長六年三月寂しければ、其子祐惠寺務をつく、同八年正月二日の夜、夢床の間何人ともしらず歌をよみてこたへり、その歌の心は寺号海岸の字には崩るるの縁ありて不吉なれば、厳正の字にかへて然るべしといへり、さめて後奇異のおもひをなし、やがて其年の十月より今の寺号にあらためり、祐惠より後今に至るまで血脈相続せりとぞ、客殿七間四方、本尊阿弥陀如来を安ず、又寺伝に云享保年間有徳院殿この邊御遊猟ありし時、しばしば当寺へわたらせ賜ひかり、後和中散をあきなふ大和がもとに御休息所を営ましめ賜ひしかば、其事やみしとぞいふ。
寺寶九字名号一幅。弘法大師の筆なり、第二世法密上人、正応四年紀州高野山より、故郷へ帰らんとするとき、師の僧さずけしといへり。
獅子仮面三頭。法密上人の作なり、此仮面の来由は永享元年の夏、当所旱魃の時、土人の願により雨を祈りしとき、法密自ら三寸三分の稲荷の像を彫刻し、境内に小祠をたて安置し、又藁をもて竜頭と作りて祈願し、彼竜頭を海上に放ちければ忽一昼夜の間大雨降れり、これよりしばしば雨降て、同三年には春より夏に至るまで霧雨せしとき、土人密師の雨を祈りしにより験はありけれど、霧雨の患にたへずなどしぶやきしにより、密師此獅子の仮面とつくりて、一七日の間浄土三都を転読し、その後土人をあつめかの獅子頭を戴きて舞はしめければ、一時に雨やみ雲はれしとぞ。この仮面は獅子頭とは称すれど、麟龍などの頭ににせてつくりなせり、此より獅子舞永例となりて今に年々執行せり。
六字名号一幅。蓮如上人の筆なり、第六世十一月山科本寺へ詣しとき、蓮如上人より賜はれり。
鐘楼。客殿の西南の方にあり、安永元年新鋳せし鐘なり、銘文も刻したれど考證に益なければ略せりと云。
太子堂。客殿の西北にあり、二間四方、太子の像は立像にて長三尺計りなり。
善仁寺。門に入て右の方にあり。
佛照寺。善仁寺に向ひてあり。(新編武蔵風土記稿より)


厳正寺所蔵の文化財

  • 木像阿弥陀如来立像
  • 聖徳太子絵像
  • 三国七祖師絵像
  • 親鸞絵像
  • 蓮如絵像
  • 武蔵国荏原郡六郷大森村厳正寺由緒
  • 安永元年(1772)鋳造梵鐘c
  • 水止舞(東京都指定文化財)

梵鐘大田区文化財

梵鐘
高さ、一四三センチ、口径四七センチ。梵鐘の側面(「池の間」と呼ばれる部分)に刻まれた銘文によって、当時十七世祐尊の代、安永元年(1722)十二月に、武州品川に住む鋳物師渡部亦市が鋳造したことがわかる。
寄進者は、大森村などの檀信徒で、川端九日講中、堀ノ内十三日講中、同十四日講中、同十五日講などの講の名が見え、この地域における真宗系集団の存在を示す資料でもある。(大田区教育委員会より)

厳正寺の周辺図


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