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宝幢院|大田区西六郷にある真言宗智山派寺院

宝幢院の概要

真言宗智山派寺院の宝幢院は、大綱山と号します。鵜の木光明寺第3世行観(保元元年1156年寂)が創建したと伝えられ、門末50余ヶ寺を擁した檀林所でした。天正19年(1591)には徳川家康から11石の朱印状を拝領しています。玉川八十八ヶ所霊場結番、東海三十三観音霊場17番、武蔵不動尊22番です。

宝幢院
宝幢院の概要
山号 大綱山
院号 宝幢院
寺号 -
住所 大田区西六郷2-52-1
本尊 阿弥陀如来
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 玉川八十八ヶ所霊場結番、東海三十三観音霊場17番、武蔵不動尊22番



宝幢院の縁起

宝幢院は、鵜の木光明寺第3世行観(保元元年1156年寂)が創建したと伝えられ、門末50余ヶ寺を擁した檀林所で、天正19年(1591)には徳川家康から11石の朱印状を拝領しました。大正期には、末寺だった泉蔵院を合併しています。。

「大田区の寺院」による宝幢院の縁起

寺伝によれば、醍醐山光台院の行観の開基といわれ、行観は保元元年(1156)に寂しているから、平安末期の開創になる。醍醐山地蔵院道教方の法流を継ぎ、末寺50余を有し、これらの子弟を教養する檀林所であった。享禄5年(1532)小田原城主北条氏康は、寺領11石を寄進し、天正19年(1591)徳川家康の寄進をはじめ、歴代将軍の庇護をうけた。しかし、安政6年(1859)の大暴風のため、諸堂倒壊し、さらに明治維新の変革により、昔日の盛観を失った。大正7年(1918)に至り、本堂、庫裡、山門、鐘楼を建造したが、昭和20年(1945)の戦災により、山門、鐘楼を残して焼失し、昭和37年(1962)本堂、庫裡を再建した。
「新編武蔵風土記稿」には、行観は鵜の木光明寺第3世の住持であり、もと光明寺が真言宗であったが、浄土教となったため、近郷に真言宗の寺院を建立し、開山となったと記している。
当寺の習俗には、念仏講がある。旧高畑村の講員が中心となって、毎月講員宅の仏間で、光明真言、十三仏などの真言を唱和し、現在も続いている。また玉川八十八ヶ所霊場第八十八番札所、東海三十三観音霊場第十七番、武蔵不動尊第二十二番札所である。大正年間に高畑村泉蔵院を併合し、墓所等も合祀した。(「大田区の寺院」より)

新編武蔵風土記稿による宝幢院の縁起

宝幢院
境内15,000坪、村の西方古川村の界にあり。新義真言宗、山城国醍醐光台院末。大綱山光明寺と号す。開山行観上人は保元元年6月9日示寂すと云のみにて、其詳なることは寺伝を失す。しかるに鵜の木光明寺の傳へによれば、行観上人はかの寺第3世の住持にて、鎮西派の浄教を奉せし人なり。当時草創の来由をたづぬるに、行観平日おもへり、鵜の木光明寺はもとこれ高野大師、鉢をとどめし地にして、浄土の道場となりしこと、法のためとは云へども、大師の霊さこそ本意なくおぼすべきなれば、近郷に真言の寺院を建立して、その志を達すべしと。終にこの地をしめて一寺を建立し、自も此ところに幽棲し開山となれり。第二世は本意のことく真言の僧を招待して寺を譲り、後に埼玉郡大相模の邊へ転住して入滅せりと。かかりければ寺号も院号もをなしくして、ただ鵜の木にては寺号を以て行はれ、当寺は院号をもて行はるるを異とす。山号はいかなる故にか金の字をあらためて綱の字を用ゆと。遥の後小田原北条家分国の頃、寺領を寄附せしといふ、今にその頃の文書四通を蔵す。氏家氏直の文書二通、その余の二通は板部岡江雪が奉りの由をしるして、虎の朱印を押す。御入国の後東照宮より寺領11石御寄附の御朱印を賜りしより、今もかはらず。
門。
両柱の間7尺。大綱山の三字を扁す。門前五六十間ばかり左右に大木のならびたてるあり。
本堂。
8間に6間。本尊阿弥陀如来の立像。長さ2尺2.3寸ばかり。恵心僧都のさくなりといひつとふ。
寺宝。
弘法大師像2体。地蔵菩薩像1体。理現大師像1体。不動明王像1体。愛染明王像1体。観世音菩薩像1体。大黒天像1体。肉付仏舎利1粒。弘法大師自筆書畫1軸。三日月地蔵菩薩畫讃1軸、弘法大師筆。南都東大寺妙澤和尚筆1軸。不動明王畫讃1軸、弘法大師筆。不動明王畫讃1軸、興教大師筆。紺紙金泥両部曼荼羅2幅、興教大師筆。釈迦涅槃曼荼羅1幅。金胎両部曼荼羅1幅。八祖畫讃8幅。光明曼荼羅1幅。十二天畫像1幅。
鐘楼。
門を入て右の方にあり。2間四方、鐘の径3尺3寸5分。銘文あり。(中略)
弁天社。
本堂の右の脇にあり。9尺四方、傍に小池あり。
熊野社。
門を入て右にあり。僅なる小祠なり。
神明社。
門前農家の背後にあり。
稲荷社。
是も門外にて境内南の方の地につづきてあり。此社は当寺の地守なりや、寺伝云ありしも、其実は此祠へ寄進ありしなりと。今は此所林樹茂りて社の四方をおほへり。(新編武蔵風土記稿より)

合併した泉蔵院について

境内除地2段9畝、宝幢院より少し西へ寄てあり。新義真言宗、宝幢院の末寺なり。西光山福泉寺と号す。
開山開基詳かならず。中興開山は法印惠俊慶長2年7月13日寂せり。
客殿6間に4間半。本尊大日如来を安ず。作知れず。坐像にして長1尺2寸許。境内の北に往来ありて、其北に墓地あり。見捨地5畝18歩あり。(新編武蔵風土記稿より)


宝幢院所蔵の文化財

  • 梵鐘(国重要美術品)
  • 宝幢院文書(東京都重要文化財)
  • 水船(手水石)
  • 阿弥陀如来立像

梵鐘

梵鐘銘文「延賓九年辛西天霜月吉日」によれば、延宝9年(1681)に、当時の住職法印弁栄が願主となり勧進し、鋳物師大工椎名伊予守良寛の手により多摩川の河原において鋳造された。
この梵鐘は、美術的にも高く評価され制作年代も古く、特にこの地で鋳造された事実は興味深い。
同銘文には、末寺名や近郷の寄進者の名が見られ、宝幢院の檀徒分布や末寺関係などを知ることができる。(大田区教育委員会掲示より)

水船

白河石(火成岩)でできており、横67cm、幅32cm、高さ26cm。
制作年代は寛永20年(1643)2月28日。在銘の水船(手水石)としては区内最古である。
もと当院境内にあった熊野社の手洗であったが、明治元年(1868)の神仏分離で、社は六郷神社に合祀された。
その折、この水船は当院に残され、本堂前に置かれていたが、境内整備に伴い現位置に移された。(大田区教育委員会掲示より)

阿弥陀如来立像

木造寄木造り、金箔、玉眼、像高68.3cm。
当院の本尊で、作者及び造立年代はつまびらかでない。近年の修理の際、天文年中(1532-55)の胎内修理銘が発見された。
これに仏師鎌倉法橋賢養、助手道湛と記されているところから、造像年代は当然それよりも、かなりさかのぼりうると考えられる。
鎌倉様式をもつ数少ない仏像として貴重な存在であるが、近年の修理により、著しく古様を損したのは惜しい。(大田区教育委員会掲示より)

宝幢院の旧末寺

宝幢院は、門末50余ヶ寺を擁していたと伝えられ、現在も数多くが現存しています。


宝幢院の周辺図


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