千光寺。志木市上宗岡にある真言宗智山派寺院

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千光寺。志木市上宗岡にある真言宗智山派寺院

千光寺の概要

真言宗智山派寺院の千光寺は、青龍山観音院と号します。千光寺は、紀伊國高野山の法印承興が天慶4年(941)開基したといい、法印権大僧都善海が応徳2年(1085)中興したといいます。

千光寺
千光寺の概要
山号 青龍山
院号 観音院
寺号 千光寺
本尊 不動明王像
住所 志木市上宗岡2-2-30
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 -



千光寺の縁起

千光寺は、紀伊國高野山の法印承興が天慶4年(941)開基したといい、法印権大僧都善海が応徳2年(1085)中興したといいます。

新編武蔵風土記稿による千光寺の縁起

(宗岡村)千光寺
新義真言宗、新座郡大和田町普光明寺の末、青龍山と號す、開山玄海寛治二年二月五日寂すと云ひ、且境内の観音堂に応永の鰐口を掛ければ、何れにも舊き寺なるべし、過去帳を閲するに、寛治年中の開山より歴世の僧名を、今に至まで載たるのみにて記録なけれども、舊地なること勿論なり、本尊不動は長二尺許にて、いと古色なり、
観音堂。千手観音にして座像二尺許、運慶の作と云、此堂に応永廿五年七月廿八日、吉□啓白信心心大旦那安良國と彫り、圓径七寸許の鰐口を掛く、元より此堂へ納めしと云kとおもなければ、定かならざれども、當寺寛治の開基ならんには、此鰐口の有も理り疑ふべからず、此外境内に五輪の古碑あり、断壊して僅に残りたる處、永和元乙卯十二月十一日とみゆ。何人の墳なるは辨せざれど、是等の物有るを見れば、兎角に古き寺なること知べし。(新編武蔵風土記稿より)

境内掲示による千光寺の縁起

当寺は青龍山観音院千光寺と称し、天慶四年(九四一)紀伊國高野山より法印承興来り開基す。応徳二年(一〇八五)法印権大僧都善海により中興された。本尊は不動明王にて観音堂(室町初期建立〜江戸享保一七一七再建)には三十三年毎に開帳される。名仏師運慶作と伝えられる丈六十センチ程の寄木造り金泥塗の秘仏聖観世音菩薩座像が安置されている。(境内掲示より)


千光寺所蔵の文化財

  • 不動明王像
  • 弘法大師興教大師座像
  • 鰐口(指定文化財)
  • 宝篋印塔

不動明王像

室町時代の作と鑑定されている。本尊である像は右手に剣、左手に羅索をもち丈六十センチ程の寄木造りの座像である。(境内掲示より)

弘法大師興教大師座像

室町時代の作にて丈四十センチ程の寄木造りであり真言宗の祖師として共に両大師と呼ばれている。(境内掲示より)

宝篋印塔

永和元年(一三七五)に造られ当地方の一勢力をなしていた者の墓標ともみられ、高さ六十センチ程のものである。永和とは吉野朝末期の年号であり、当地方が足利氏の勢力下にあったことを物語っている。(境内掲示より)

鰐口(指定文化財)

鰐口は、社殿や仏殿の軒先などに吊るされた銅製の仏具で、礼拝のときに参拝者が鉦の緒と呼ばれる太い組ひもで鼓面を打ちならす法具である。
鰐口の表面には、陰刻で次のような銘文がみられる。
応永廿五年七月廿八日吉
敬白信大旦那安良国
これにより信者である安良国という人物が、応永二十五年(一四一八)七月二十八日に奉納した鰐口であることがわかるが、安良国については一切不明である。
また、大窪郷(現在の浦和市大久保周辺)の安保氏の後裔が入間川を隔てて奉納した可能性もあるが、定かでない。
なお、鰐口は戦国時代などの戦いにおける鳴り物として扱われた場合もあるため、移動した例もある。
千光寺の鰐口については、江戸末期の地誌「新編武蔵風土記稿」に鰐口が千光寺観音堂へ奉納されたかどうかは明らかでないとしながらも、寺の古さからいってこの鰐口があっても不思議はないと伝えている。(志木市教育委員会掲示より)

千光寺の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」