雪塚稲荷神社。川越市幸町の神社

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雪塚稲荷神社。狐の祟りを鎮めるために奉斎

雪塚稲荷神社の概要

雪塚稲荷神社は、川越市幸町にある稲荷神社です。雪塚稲荷神社は、文政6年(1813)迷いあらわれた白狐を打ち殺した挙句、食した若い衆が祟られたことから、狐の祟りを鎮めるために奉斎、大雪の日に因んで雪塚稲荷神社と称したといいます。

雪塚稲荷神社
雪塚稲荷神社の概要
社号 雪塚稲荷神社
祭神 雪塚稲荷大明神
相殿 -
境内社 三峰神社
祭日 例大祭4月12日
住所 川越市幸町5-8
備考 -



雪塚稲荷神社の由緒

雪塚稲荷神社は、文政6年(1813)迷いあらわれた白狐を打ち殺した挙句、食した若い衆が祟られたことから、狐の祟りを鎮めるために奉斎、大雪の日に因んで雪塚稲荷神社と称したといいます。

境内石碑による雪塚稲荷神社の由緒

雪塚稲荷略縁起
当社は城下町川越の十ヶ町の一つ、南町の氏神として崇拝されてきた。南町は、江戸から明治にかけて六十軒あまりの町であったが、江戸店を構える大商人を多く生み出し、明治十一年(一八七八)には県下初の国立銀行を開業させるなど、十ヶ町の中でも中心的な商業地であった。
神社の創始は、口碑に、「江戸の昔、ある大雪の夜、南町の通りに一匹の白狐が迷いあらわれた。これを見た若い衆数人が白狐を追い回してついに打ち殺し、挙句の果てにその肉を食したところたちまち熱病にかかり、さらに毎夜大きな火の玉が街に現れるようになった。町内の者はこれを白狐の祟りだとして恐れおののき、近くの長喜院の境内に社をたて、白狐の皮と骨を埋めて塚を築き、雪の日のできごとであったことにちなんで、雪塚稲荷神社と名付けて奉斎した」という。
明治二十六年の川越大火によって本殿、拝殿焼失、同三十年四月二十八日に再営した。その際土中のご神体を改めたところ、白狐の毛が逆立つのを認め驚いて再び埋納したという。
また、昭和五十五年社殿の修理中、床下中央部から石板が発見され、「雪塚稲荷神社遺躰文政六年二月十二日御霊昇天、同年三月十二日御霊祭日と定め同年同日雪塚稲荷神社と称す」との銘文があった。
文政六年(一八一三)以来、とくに商売繁盛に霊験あらたかさをもって知られ、町内のみならず、遠隔地の講中や近隣末社の人々の不断の信仰に支えられてきた神社である。(境内石碑より)

「埼玉の神社」による雪塚稲荷神社の由緒

雪塚稲荷神社<川越市幸町五-八(川越字南町)>
城下町川越の中心にある当地は、江戸から明治にかけて六〇軒余りの町であったが、大阪堂島の米相場を左右した藩御用商人横田五郎兵衛を生み、明治二年には県下最初の国立銀行を当町に開業させた。一方文化面では幕末の女流歌人安斎教子、日本画の小茂田青樹、洋画の岩崎勝平、小説家の細田源吉などを輩出している。
当社の創始は、口碑に「江戸の昔、或る大雪の夜南町の通りへ一匹の白狐が現れたのを、町内の若衆数人が追い回して打ち殺し其の肉を食うとたちまち疫病にかかり、さらに毎夜大きな火の玉が街に現れるようになった。町の者は恐れてこれを白狐の崇りだとして、皮と骨を埋めて塚を築き、まれな大雪の日にちなんで雪塚稲荷神社と名付けて奉斎した」という。
明治六年四月一三日に本殿・拝殿を再建、同二六年三月一七日川越大火により本拝殿焼失、同三〇年四月二八日に本殿・拝殿を再営する。この時土中の神体を改めたところ、白狐の毛が逆立つのを認め驚いて再び埋納するという。
昭和五五年二月、社殿の修理中、床下中央部から石板が発見され「雪塚稲荷神社遺躰・文政六癸未年二月十二日御霊昇天・同年三月十二日御霊祭日と定め同年同月同日雪塚稲荷神社と称す」の銘文があった。
祭神は雪塚稲荷大明神である。(「埼玉の神社」より)


雪塚稲荷神社所蔵の文化財

  • 川越市伝統的建造物保存地区(国選定)
  • 川越氷川祭の山車行事(国指定重要民俗文化財)
  • 翁の山車(埼玉県指定有形民俗文化財)
  • 踊り屋台(川越市指定有形民俗文化財)
  • 旧南町保有文書(川越市指定有形文化財)

雪塚稲荷神社の周辺図