柳崎氷川社。川口市柳崎の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

柳崎氷川社。旧柳崎村の鎮守

柳崎氷川社の概要

柳崎氷川社は、川口市柳崎にある氷川社です。柳崎氷川社の創建年代は不詳ながら、当社の別当寺だった天台宗観音院が織田信長の比叡山焼き討ち(元亀2年1571)を逃れて当地に逃れ来たといい、また元禄年間に大谷口・井沼方・中尾・柳崎の四か村が一村より分村したということから、観音院が所蔵していた慶安2年(1649)銘の棟札が創建年前後ではないかと考えられます。明治6年(1873)村社に列格、明治41年(1908)には字後町の稲荷神社及び白山社、字西ヶ原の稲荷社を合祀しています。

柳崎氷川社
柳崎氷川社の概要
社号 氷川社
祭神 素盞嗚尊、天照大御神、伊弉冉尊、速玉男命、事解男命、大山祇命、天御中主命
相殿 -
境内社 御嶽社、三笠山刀利天・八海山神王、菅原社・稲荷社相殿
祭日 -
住所 川口市柳崎5-20-1
備考 旧柳崎村の鎮守



柳崎氷川社の由緒

柳崎氷川社の創建年代は不詳ながら、当社の別当寺だった天台宗観音院が織田信長の比叡山焼き討ち(元亀2年1571年)を逃れて当地に逃れ来たといい、また元禄年間に大谷口・井沼方・中尾・柳崎の四か村が一村より分村したということから、観音院が所蔵していた慶安2年(1649)銘の棟札が創建年前後ではないかと考えられます。明治6年(1873)村社に列格、明治41年(1908)には字後町の稲荷神社及び白山社、字西ヶ原の稲荷社を合祀しています。

新編武蔵風土記稿による柳崎氷川社の由緒

(柳崎村)氷川社
當村及び井沼方等二村の鎮守なり、観音院の持社内に慶安二年の棟札あり、表面の中央に奉新造氷川大明神云々と書し、左右に武州足立郡木崎領八木崎村、同郷之内八木村云云、御代官熊澤彦兵衛と記し、左傍の下に野口左京・小嶋金彌と並べ書し、其外に外記といへるをも並べ記したれど、名のみにて姓氏の所は消て讀得ず、これらをもても當村古へは、八木崎村といひしことますます明し、されど其内八木村と記したるは、何れの村なりや定かならず。
末社。天神社、第六天社、天王社。
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稲荷社
一は村民の持、一は観音院の持、これをば土人櫻稲荷と唱ふ、神木櫻あるによれり。
白山社
村民の持。 (新編武蔵風土記稿より)

埼玉県神社庁「埼玉の神社」による柳崎氷川社の由緒

氷川社(川口市柳崎五-二〇-一)柳崎字後町
柳崎は八木崎とも書き、見沼に突き出た台地上にある。戦国期に見える地名で、永禄七年(一五六四) の太田氏資判物写に「柳崎之内原分」とある。更に『風土記稿』によれば、元は大谷口・井沼方・中尾・柳崎の四か村で一村をなしていたといい、元禄年間(一六八八~一七〇四)のころに分村したとされる。
本社である武蔵国一宮氷川神社は、正保期の古図を見ると、広大な見沼を望む高鼻と呼ばれる高台の鬱蒼たる杜の中に鎮座しており、当社もこれに倣って見沼を望む台地上に祀られたものであろう。
『風土記稿』には 「氷川社 当村及び井沼方等二村の鎮守なり、観音院の持、社内に慶安二年(一六四九)の棟札あり、表面の中央に奉新造氷川大明神云云と害し、左右に武州足立郡木崎領八木崎村、同郷之内八木崎云云、御代官熊澤彦兵衛と記し、左傍の下に野口左京・小嶋金彌と並べ書し、其外に外記といへるをも並べ記したれど、名のみにて姓氏の所は消て読得ず(以下略)」とあるが、その棟札の所在は不明である。また、別当観音院は大慈山東光寺と号する天台宗の寺院で、本尊の子安観音は元亀二年(一五七一)の織田信長による比叡山焼き打ちの際、坂本の地から難を逃れた僧恵海がこの像を背に東国に霊地を求め巡錫に出て、この柳崎の地が、坂本の旧地に似ていたのを見て喜び、尊像を奉安したとの由来が伝えられている。(埼玉県神社庁「埼玉の神社」より)


柳崎氷川社の由緒

  • 柳崎氷川神社

柳崎氷川神社

柳崎氷川神社の見世棚造は、三芳野神社末社蛭子社・大黒社(川越市/県指定文化財)、愛宕神社本殿(上尾市/市指定文化財)の他、前川神社本殿・附島氷川女体神社本殿・太田窪氷川神社本殿・大谷場氷川神社本殿・本太氷川神社本殿・片柳沖郷弁天社本殿など見沼低地以西にみられる造りであるといいます。

本社の草創は明らかではないが、江戸時代の『新編武蔵風土記稿』によると、当時、柳崎及び井沼方二村の鎮守であったとの記載が見られる。本殿の建立年代は、棟札の記述から慶安2年(1649)頃と伝えられるが、現在この棟札は失われている。その後、明治6年(1873)村社となり、同41年(1908)には字後町の稲荷神社及び白山社、字西ヶ原の稲荷社を合祀し現在に至っている。なお、現在本殿は、拝殿付覆屋中に納められている。
現本殿の形式は一間社流れ見世棚造、屋根は目板葺で、桁行1.305m(4.31尺)梁間1.180m(3.89尺)の身舎に0.970m(3.20尺)の向拝を付ける。身舎は切石上に井桁を組んだ土台に円柱を立て、内法長押で結び、舟肘木で桁を支える。妻飾りは猪子杈首組で、破風拝みの装飾は猪の目懸魚。向拝は面取りの方柱上に舟肘木、軒桁が渡されており、身舎と直線的な繋虹梁で結ばれている。また、向拝柱前面に七段の木階が付く(これはこの地域の見世棚の特徴である)、本建築は江戸時代中期のものと考えられるが、見世棚造の原型を思わせる簡素な構造と意匠を持ち、当地域における同建築様式を知るうえで、大変貴重な例である。(境内掲示より)

柳崎氷川社の周辺図