千手院。鴻巣市下忍にある真言宗智山派寺院

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千手院。島崎図書が創建、下忍学校開校地

千手院の概要

真言宗智山派寺院の千手院は、延明山大聖寺と号します。千手院は、島崎図書が慶長13年(1608)正月に開基となり創建、その嫡男永慶法印(寛永13年1636年寂)が開山したといいます。その後、学応法印が中興、江戸時代には下忍愛宕神社の別当を務めていました。明治6年には当寺本堂を利用して下忍学校が開校しています。

千手院
千手院の概要
山号 延明山
院号 千手院
寺号 大聖寺
本尊 不動明王像
住所 鴻巣市下忍3144-1
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 -



千手院の縁起

千手院は、(鉢形城落城後に当地に土着した)島崎図書が慶長13年(1608)正月に開基となり創建、その嫡男永慶法印(寛永13年1636年寂)が開山したといいます。その後、学応法印が中興、江戸時代には下忍愛宕神社の別当を務めていました。明治6年には当寺本堂を利用して下忍学校が開校しています。

新編武蔵風土記稿による千手院の縁起

(下忍村)
千手院
遍照院末、愛宕山大聖寺と号す。開山永慶寛永13年11月29日示寂す。本尊不動を安ず。(新編武蔵風土記稿より)

「吹上町史」による千手院の縁起

千手院
忍小学校前の県道を東に、約五〇〇メートルほどんだ左手に千手院がある。新義真言宗智山派、駒形(現行岡市)の遍照院末派で、延明山大聖寺と号していた。千手院は江戸時代から愛宕神社を管したので、山号を愛宕山と称したが、神仏混滑の禁令によって愛宕社の管轄をといたので、延明山大聖寺と改め現在に至っている。
慶長十三年(一六〇八)正月、島崎図書が開創した寺で、同十八年二月、図書の嫡男永慶法印が開山となっている。後永慶法印は、本寺遍照院に転住したが、寛永十三年十一月二十九日示寂している。元禄十年(一六九七)六月、島崎新五右衛門が資金を出し、覚応法印が斡旋して堂宇を改築したので、覚応法印を千手院の中興としている。覚応は宝永四年(一七〇七)十二月二十九日寂し、その墓は、本堂左手裏の一角歴代法印墓地にある。覚応法印の五輪塔のすぐ右手に、墓地調査の結果吹上町内で最も古いと恩われる「慶長十八癸丑七月十五日、明山文口居士」の石塔が並んでいる。なお院内には、鎌倉時代末から室町時代初めごろと思われる宝篋印塔五基が完形ではないが残されている。現在は、破損散逸を防ぐため本堂内に格納してある。また本堂前庭には同時代の板碑もあって、古くからここに祠堂があったものと恩われる。
境内の勝軍地蔵堂は、明治三年(一八七〇)の創立だが、木尊勝軍地蔵は古くから愛宕神社社殿に鎮座し、村民の信仰をあつめたものであった。明治政府の神仏混淆禁止によって、別に地蔵堂を建立しここに移し安置したものである。勝軍地蔵堂裏手にあたって観音堂がある。この宝殿には「正徳五乙未年仲冬、穀旦、開先加持、前遍照院法印儘覚」とあり、正徳五年(一七一五)の建立であるという。
千手院の本尊は不動明王立像で、木造、寄木造、玉眼、檀像、火炎光背、像高一〇〇センチ、江戸初期作と推定している。
本堂左手奥の興教大師像(新義真言宗の開祖)寄木造の胎内銘に、「元禄十二乙卯年九月上旬、奉造興教大師、袋村大仏師中井喜内広士口、住持僧慧謹書」とあり、この像は地元袋村の仏師中井喜内広吉の作である。なお享保の「村鑑」にも袋村に仏師一人「喜兵衛」と記録されているが、おそらく中井家の流れをくむ仏師の一人であろう。
明治六年(一八七三)四月四日、千手院の本堂を借り受け下忍学校の開業式が行われた。時の下忍村・鎌塚村・袋村・堤根村・樋上村五か村の、近代教育発祥の地である。(「吹上町史」より)


千手院の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「吹上町史」