天豊受神社。三郷市鷹野の神社

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天豊受神社。稲荷神社と天神社とを明治43年に合祀

天豊受神社の概要

天豊受神社は、三郷市鷹野にある神社です。天豊受神社は、村の鎮守社として元禄年間に創建された、常陸国笠間稲荷神社御分霊宇迦之御魂命を奉祭した稲荷神社と、武蔵国亀戸天満宮御分霊菅原道真公を奉祭した天神社とが、明治43年に合祀して天豊受神社と称することになったといいます。その後長戸呂堤内添に創建、江戸川河川改修に伴い、昭和34年当地に遷座したといいます。

天豊受神社
天豊受神社の概要
社号 天豊受神社
祭神 宇迦之御魂命、菅原道真公
相殿 -
境内社 -
祭日 -
住所 三郷市鷹野1-34-1
備考 -



天豊受神社の由緒

天豊受神社は、村の鎮守社として元禄年間に創建された、常陸国笠間稲荷神社御分霊宇迦之御魂命を奉祭した稲荷神社と、武蔵国亀戸天満宮御分霊菅原道真公を奉祭した天神社とが、明治43年に合祀して天豊受神社と称することになったといいます。その後長戸呂堤内添に創建、江戸川河川改修に伴い、昭和34年当地に遷座したといいます。

新編武蔵風土記稿による天豊受神社の由緒

(長戸呂村)
稲荷社
天神社
以上二社を村の産神とす、圓福寺持(新編武蔵風土記稿より)

境内掲示による天豊受神社の由緒

天豊受神社由来
宇迦之御魂命、菅原道真公
当長戸呂村は其の昔、鎌倉時代には下総国八木郷風早荘に属し、風早四郎胤康の重臣長戸呂胤能と言う武将に依って支配されていた。
長戸呂の鎮守様は常陸国笠間稲荷神社御分霊宇迦之御魂命を奉祭した稲荷神社と武蔵国亀戸天満宮御分霊菅原道真公を奉祭した天神社の両社にて元禄年間に建築奉斎された氏子一同の守護神として崇敬されて来た。
然るに両社の境内は江戸川堤防外にあったため毎年のように神殿に水害を被り社殿敷地の土盛工事を施すとも、出水は年毎に重なり氏子一同恐懼の念に堪えず水害対策を行うなか、明治三十九年八月勅令を以て合祀令が発令され氏子協議のうえ稲荷神社と天神社を合祀し、社号を「天豊受神社」と改め、長戸呂堤内添に新設した境内へ遷座することになった。
なお、社号は天神社の「天」と稲荷神社御祭神と同神とされる豊受大御神の「豊受」とを組み合わせて命名された。
しかし、折りしも明治四十三年八月の古利根川堤防決壊により本村一体は大洪水に見舞われ、神殿の建築工事は延期となり、その後大正元年十月に本殿・拝殿の工事を起し大正二年四月にようやく竣工した。
思うに出水時の土盛作業、社殿の建築等わずか三十戸内外の氏子の結集により短い月日で社殿の竣工をみたものであり氏子一同の至誠の賜であった。
さらに、昭和三十三年には江戸川改修工事により再度移転を余儀なくされ、氏子の吉岡家の厚意により現在の境内地を譲り受け翌三十四年十月に遷座された。
その後、昭和五十二年に本殿・拝殿・鳥居・物置の改修工事を施し、さらに昭和六十一年に瓦屋根から銅板葺に全面改修し現在の立派な社殿を見るに至った。(境内掲示より)

「埼玉の神社」による天豊受神社の由緒

天豊受神社
「天豊受」という珍しい社名を持つ当社は、江戸川の堤防下に鎮座し、菅原道真公と倉稲魂命の二柱を祭神とする。元は一面の畑であったという境内周辺も、今では住宅地へと変容を遂げており、時の流れを感じさせる。
『風土記稿』に「稲荷社、天神社、以上二社を村の産神とす、円福寺持」とあるように、古来、長戸呂の地内には、稲荷社と天神社が祀られていた。ところが、両社は共に江戸川の堤外にあったため、毎年のように水害を被っていた。そこで、氏子一同の協議の結果、明治四十三年、天神社に稲荷神社を合併し、社号を天豊受神社と改め、江戸川の堤内に新設した境内へ遷座することになった。なお、社号は天神社の「天」と稲荷神社祭神と同神とされる豊受大御神の「豊受」とを組み合わせて命名されたものであろう。
しかし、折悪しく、明治四十三年には利根川決壊による大洪水に見舞われ、社殿の造営は延期となり、本殿・拝殿ともに大正二年にようやく竣工した。この間、大字一水木の稲荷神社と大字徳島の稲荷神社を合祀したが、前者は書状上の合祀に留まり、後者も昭和七年に旧地に復している。更に、昭和三十三年には江戸川改修工事により、当社は再度移転を余儀なくされ、氏子の吉岡家の厚意で現在の境内地を譲り受け、翌三十四年に遷座を終え、今日に至っている。(「埼玉の神社」より)


天豊受神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「埼玉の神社」