満行寺。新座市野寺にある真言宗智山派寺院

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満行寺。三百の坊社など七堂伽藍を備えていた寺院

満行寺の概要

真言宗智山派寺院の満行寺は、八幡山彌陀院と号します。満行寺の創建年代等は不詳ながら、かつては十二天村にあり、八幡社だけでなく三十余りの社、三百の坊社など七堂伽藍を備えて著名だったといい、在原業平(825-880)や准后道興(1430-1527)の歌にも詠まれているといいます。いつのころか当地へ移転、当地周辺を野寺村と称するようになったといいます。

満行寺
満行寺の概要
山号 八幡山
院号 彌陀院
寺号 満行寺
本尊 不動明王像
住所 新座市野寺2-15-17
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 -



満行寺の縁起

満行寺の創建年代等は不詳ながら、かつては十二天村にあり、八幡社だけでなく三十余りの社、三百の坊社など七堂伽藍を備えて著名だったといい、在原業平(825-880)や准后道興(1430-1527)の歌にも詠まれているといいます。いつのころか当地へ移転、当地周辺を野寺村と称するようになったといいます。

新座市教育委員会新座市文化財保護審議委員会掲示による満行寺の縁起

満行寺
真言宗智山派の寺院で、江戸時代に幕府が編纂した地誌書『新編武蔵風土記稿』文政十一年(一八二八)成立には
野寺村 満行寺
境内三町 本尊不動明王立像 豊島郡石神井村三宝寺末寺なり。八幡山弥陀院滝本坊と号す。開山は詳らかならざれど、古き蘭若にて古歌に武蔵野の野寺の鐘などよめりしはこの寺の事なりと寺伝に云えり。・・・と記されています。
その古田に曰く
武蔵野の野寺の鐘の聲聞けば 遠近人ぞ道いそぐらん(在原業平)
音に聞野寺を問えば跡ふりて こたふる鐘もなき夕哉(准后道興)
本尊の不動明王は室町時代の前期に作られたものです。
満行寺のある旧野寺村は片山郷内十か村の一つで、江戸時代は旗本小野氏の知行地でした。(新座市教育委員会新座市文化財保護審議委員会掲示より)

新編武蔵風土記稿による満行寺の縁起

(野寺村)満行寺
境内除地、三町、村の南八幡山の崖下にあり、真言宗新義、豊嶋郡石神井村三寳寺末山也、野寺山(又八幡山とも)彌陀院瀧本坊と號す、開山開基ともに詳ならざれど、古き蘭若にて古歌に、武蔵野の野寺の鐘なとよめりしは、此寺の事なりと、寺傳に云へり、又云昔は當寺今の十二天村にあり、その比は七堂伽藍甍をつらね、鎮守正八幡宮又白山権現・稲荷・富士浅間辨天以下三十餘座の末社及び三百所の坊中僧侶充満して、念誦の聲斷ざりしとぞ、それより遥の星霜を経て、關東戦争の地となりしにより、さしも盛なりし梵檀も衰へし後、今の地へ移れり、其移りし時代詳ならず、小田原北條家の末にてもありしならんといへり。
表門。八幡の山の下にあり、南向。
裏門。同ならびにて東の方へよれり。
本堂。表門の正面にあり、九間に六間半、本尊不動明王の立像(丈三尺餘)を安置す。
寳物。
佛具數種。七堂伽藍なりしとき用ひたりし古物なり、右の外にも建治元年造る所の石佛、及び文正元年の二十三夜待大勢至菩薩の供養塔等ありたり。
阿彌陀堂。本堂に向て左にあり三間四方。
地蔵堂。阿彌陀堂の側にあり、石佛の地蔵なり、近い比なりしよし、當寺の住持癪を患ひけるが、遂に起つべからざるを知り、遺言して此處に葬らしむ、彼僧兼てより死期をしり、且臨終正念を得たりし事の奇特なるを人々感嘆せり、此地蔵は墓のしるしなり、これも彼僧の示寂二月廿四日にして、地蔵の縁日にあたれるによる歟、後に人々参詣して種々の立願ありしに、各その験を得たれば彌奇異の思ひをなし、堂を營みて今は近郷より参詣の人も多しと云傳ふ。
鐘楼。是も同所にあり、當寺は鐘の名所にして、古代にも、其名高かりしと、寺傳に云へり、其かみは此鐘楼も鎮守八幡の社頭にもありしとぞ、古鐘は昔回禄の災にかかりしを、池中へ投入置しに焼失ひしとも、又盗の鐘楼の入りて、ぬすみ去らんとせしを見咎められければ、鐘をば池中へ棄て去りしが、其儘取上げずして失せたりとも云ふ、寺傳には此事につきさまざまの説あれども、みな妄誕にしてうけがたし、猶下の古跡の條に載たれば照し見るべし、今掛る處の鐘の銘に云。
(銘文省略)
右の銘文によれば、再造の鐘もふたたび回禄にかかりて、今の鐘は其後の新鋳なり、この野寺の鐘を古歌によめるもの寺傳及び世々の集に出るものを左に記す、その内うけかひがたきものすくなからず、されど姑く疑を存せり、寺傳に、武蔵野の野寺の鐘の聲聞けば、遠近人ぞ道いそぐらん、これ在原業平天長三年の詠なりといへど、寺記の外他の所見もなければ、いかがはあらん、又世に歌仙十六人の集に云ものあり、これ後人の手になりしものにて信用しがたしと云、その中【貴之集】に野寺をよみし歌あれば、姑くここに記はるるると思ひてもやれ武蔵野の、ほりかねの井に野寺あるてう、この鐘亡失せしと云へるも古き事にや、文明の比は早此鐘なかりしと見えて、【廻國雑記】に云、野寺と云へる所ここにも侍り、是も鐘の名所なりといふ、此鐘いにしへ國のみだれによりて、土のそこにうづみけるとなん、其ままほりいださざりければ、おとに聞野寺を問へば跡ふりて、こたふる鐘もなき夕哉。
稲荷榛名天神辨天諏訪合社。本堂に向ひて右にあり。(新編武蔵風土記稿より)


満行寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿