龍穏寺。入間郡越生町龍ヶ谷にある曹洞宗寺院

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

龍穏寺。太田道真・道灌父子中興、曹洞宗の関三刹

龍穏寺の概要

曹洞宗寺院の龍穏寺は、長昌山蓮華院と号します。龍穏寺は、大同2年(807)の草創と伝えられ、永享2年(1430)に室町幕府六代将軍足利義政が関東管領上杉持朝に命じて無極慧撤を開山として復興させたといいます。文明4年(1472)に太田道真・道灌父子が泰叟妙康を請じて中興、下総総寧寺(市川市)、下野大中寺(栃木市)とともに全国の曹洞宗寺院を統括する「関三刹」の一つとして武蔵・上野・紀伊・備後・美作・伊豫・土佐・阿波・讃岐・安藝・周防・長門・信濃・越後・佐渡・豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後・淡路・備中等23ヶ国の曹洞宗寺院の觸頭だったといいます。天正18年には豊臣秀吉から寺領100石の朱印状を拝領、徳川家康関東入国後も慶長17年(1612)従来通り寺領100石、関三刹として遇され、住職は麻布の江戸屋敷から登城したといいます。関東百八地蔵霊場102番、武蔵越生七福神の毘沙門天です。

龍穏寺本堂
龍穏寺の概要
山号 長昌山
院号 蓮華院
寺号 龍穏寺
本尊 釋迦牟尼仏像
住所 入間郡越生町龍ヶ谷452-1
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



龍穏寺の縁起

龍穏寺は、大同2年(807)の草創と伝えられ、永享2年(1430)に室町幕府六代将軍足利義政が関東管領上杉持朝に命じて無極慧撤を開山として復興させたといいます。文明4年(1472)に太田道真・道灌父子が泰叟妙康を請じて中興、下総総寧寺(市川市)、下野大中寺(栃木市)とともに全国の曹洞宗寺院を統括する「関三刹」の一つとして武蔵・上野・紀伊・備後・美作・伊豫・土佐・阿波・讃岐・安藝・周防・長門・信濃・越後・佐渡・豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後・淡路・備中等23ヶ国の曹洞宗寺院の觸頭だったといいます。天正18年には豊臣秀吉から寺領100石の朱印状を拝領、徳川家康関東入国後も慶長17年(1612)従来通り寺領100石、関三刹として遇され、住職は麻布の江戸屋敷から登城したといいます。

新編武蔵風土記稿による龍穏寺の縁起

(龍ヶ谷村)龍穏寺
曹洞派の大僧禄にして、關東三ヶ寺の其一なり、長昌山と號す、此寺古は今の門外小名堂澤と云所にありて、其頃は山號も瑞雲山と云り、今の寺地古くは深き淵にて、蛟龍のすみかとなり、人の通ひもなかりしに、第五世の僧雲崗和尚山神に祈誓しければ、俄に風あらく雷なり、かの龍騰天し深淵忽ち平地の如くなりし故、やがて其所へ引移せしと云、肯かひがたき説なれど、村を龍ヶ谷といへるも是より起りしといへば、其あらましを記しをきぬ、當寺の開闢を尋るに、永享の頃にや、足利将軍義教祖先尊氏以来代々の追福を修し、且多年當國の戰争に、身を果せしあまたの人の冤魂をなだめん爲、一の大伽藍を建立せんと思ひ給ふ、折から無極惠徹といへる高徳の僧あり、其先は當國兒玉の黨にて、父は将軍に仕へしものなり、世の争亂を避て肥州に至て、應永年中又當國多磨郡の小山田に来り、貞菴和尚を師として、大泉寺を開き暫く住せしが、後又父母の遺跡を慕ひ、且は當郷の内瀧の入村桂木山に、兼て信ずる観音の靈場あるにより、ここに来て暫く錫を停めけり、義教元より此僧に歸依せしかば、迎取て開山たらしめんとす、然るに當國は扇ヶ谷上杉修理大夫持朝が分國たるにより、かの人に命じて七堂伽藍を粧嚴せしめ、若干の寺領を寄附し、懇に請じ入れて開山とす、其後無局檀越の進めにより、月江正文和尚に當寺を譲りて、濃州補陀寺に趣き、永享二年十二月二十八日寂を示す、月江左﨟の間は世の争亂止時なく、此邊しばしば戰争の衛となりしゆへ、遂に兵火にかかり、堂宇すべて一擧の煙燼となりけるに、かかる争戰の間なれば資費をそふる者もなく、月江一己の力にては、再建に及びがかきゆへ、空く當寺を出て暫く小杉村に隠棲す、今の圓通寺是なり、其後月江亦師の迹をしたひ、濃州にいたり、補陀寺に住職せしかば、當所は再建の沙汰に及ばず、たれも法幢を立べき者もなきゆへ、廢寺の如くにて年をへたり、ここにまた泰叟といひし僧あり、二師の迹を恢復せんとす、時に太田道眞道灌父子も、亦先祖の冥福を修せんことを思ひ、且はこの年ごろ屍を戰場に曝せし人々の亡靈を弔んが爲、去るべき寺院を經營せんと思ひしに、たまたま普光院義教三十三年の祭期も、近く明年に當れるをもて、前に無極董席せしめ、曹洞一派の事を總司らしむ、是文明四年のことなり、依て此僧を中興開山と稱し、道眞をもて中興開基とし堂中に太田家代々の靈牌を置り、道眞明應二年二月朔日卒す、一に七月二十五日とあり、謚して自得院寶慶道眞庵主と號す、泰叟後足立郡大成村普門院に移職し、明應六年十一月四日示寂す、第五世雲崗和尚のとき、法力を以て龍怪をなだめ、永正元年當寺を今の地に移し、山號をも長昌と改むと云事は前に辨ぜり、又第七世節菴和尚が天文十二年に記す所の寺傳あり、首尾總て漢文にて、或は佛語を交へ事長ければ、全文をばとらず、其要を攝み及び今住総の傳ふる所を述ること此の如し、寺の起立のことに至りては、疑ふべきことあり、小山田の大泉寺と當寺のことと相混じて、書せしさまにてわかりがたく、其上泰叟より以前は、しばらく他派の僧住せしなど云こと見ゆれば、無極お開闢すと云は、大泉寺のことにて當寺は泰叟始めて開き、無極を勧請して開山とせしもしるべからず、されど舊刹なることは疑ふべからず、相國寺の僧萬里が【梅花無盡蔵】に、文明十八年季是十日、越生の道眞が自得軒に就て、郭公稀なりといふ題にて七絶一首を吟ず、縦有千聲尚合稀、況今一度隔枝飛、誰知殘夏似初夏、細雨三兆聴未歸、又長享二年八月十六日、龍穏精舎に入て市絶を賦す、越生古寺御鞍時、斜照吹鵜欲宿枝、忽入上古参薬石、愧非忘箸老禅師、是等にても當寺の舊迹たること知るべし、又第十四世良加和尚の時、天正十八年太閤秀吉より小田原征伐のとき、朱印を押せし制札を與ふ、其文を寫て門外にたつ、又同き年百石の朱印を與ふ、その文今は失へりと云、東照宮駿府にあらせられし頃、第十七世洞谷和尚のとき、慶長十七年先規に任せて、寺領百石の御朱印を賜ひ、僧禄司三ヶ寺のことも是までのごとく御ゆるしあり、又全阿彌を以て宗法の掟を仰せ下されし文書もあり、其分下にのす、三ヶ寺と云は當寺及下總國國府臺總寧寺・下野國富田大中寺是なり、此三寺にて國中を三分し其一をつかさどる、當寺のあづかる所は二十三ヶ國、所謂武蔵・上野・紀伊・備後・美作・伊豫・土佐・阿波・讃岐・安藝・周防・長門・信濃・越後・佐渡・豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後・淡路・備中等なり、御打入の前よりも此三寺は僧禄司なれど、總寧寺は始め乗安寺といひ、大中寺はもと乗國寺と云、寺號の昔よりかはらざるは、ただ當寺のみなり、又秩父郡高山の不動は、當寺の奥院と稱す、今も住総入院の後必高山へ参詣す、又云古へは住僧常に當所に居りて、江戸の公務は芝青松寺へ役僧を出しおきて勤めしが、次第に公用多端なれば、二十六世普春和尚のとき、延寶六年江戸麻布本村にて六百坪の寺地を買ひ、宿寺を造立してここに常住す、後此所賜地をなれり、しかりしより後は、住職の後一日の御暇賜はりて當所に来り、夫よりは始終江戸の宿寺の方に居り、當所には鑑司をおきて諸事を調理せしむ、是は正徳年中より定められしことにて、かの普春は元禄二年十月二十日の示寂と云、かかる大寺なれば地域もことに廣し、ここにまた山口周防守重政なるもの當寺に居りしと云、其家の譜に重政慶長六年武蔵國の由木に於て五千石の地を加へ給ひ、同十一年台徳院殿の鈞命を請て大番の頭となり、同十六年下野國の中にて、又五千石の加恩を賜ひ、都て一萬五千石を領せしが、同十八年故有て罪を得、當郡越生の庄龍穏寺に隠居り、同十九年大坂御陣の時、重政其子伊豆守重信を携へ、ひそかに其役にをもむかんとして、箱根の關に至るとき、關守是を通さず、依て又龍穏寺にかへり、重信を商人の體に粧ひ立て出せしが、已に御和睦調しかば重信又當所にかへりしとあり、されば山口父子當寺に寓居せしこと疑ひなけれど、住僧に問ふにつまびからならず。
惣門。冠木門なり、門に向て左の方に制札を立、其文左に
禁制
武蔵國越生龍穏寺幷郷中
一軍勢甲乙人等濫妨狼藉之事、
一放火之事、
一對寺家門前之輩非分之義申懸事、
右條々堅令停止訖、若於違犯之輩者、忽可被處嚴科者也、
天正十八年 御朱印
ここに御朱印と記すものは、前にもいふごとく太閤秀吉の朱章なり、惣門を入れば左右に並木あり、並木の外は小山連り龍ヶ谷の川ながれり。
蒲團石。惣門の内にあり、一間四方許りにて、上面半かなる石なり、一名を蒸麩(シヱンフ)石と云、昔より住僧定り初て入院の時、石上に毛氈をしき、かの住僧惣門の方よりここを過るとき、この石上にしばし憩息するを常例とす、此とき點心として、蒸麩を食する故かく名くと云。
板橋。龍ヶ谷川に架す、此橋をわたり、川にそふてゆく、傍に大石あり、高さ六尺餘、自然石とみゆ、これを帳付石と云、節菴が記す所の天文十二年の寺傳にもみえざれば、古くよりありしなるべけれど、其由来は詳ならず。
表門。近年大風にやぶれて、未だ再建せず、假の門を立。
樓門。
冠木門。
本堂。本尊釋迦脇士伽葉阿難の像を安ず、この堂の左右に廻廊を設け、冠木門の左右に續けり、中庭に小池あり、池中に辨天の小社あり。
庫裡。
鍾樓。寛文十二年當寺第二十五世太了和尚のとき鑄造せしものなり、銘文あれど考證に益なければとらず。
僧堂。衆寮。
熊野社。第三世泰叟の勧請する所、境内の鎮守なり。
閻魔堂。浴室。
寮。秩父寮・首座寮・坂戸寮・三陽軒など云學寮あり。
五輪石塔。二三基立り其内太田道灌の墓ありと傳ふれど、文字も消たれば、いづれが是なるを知らず。
月光水。墓所の中なる古木の杉の根より出る靈水なり、當寺月光和尚といふ者、加持の水に用ひしと云、村民はかまの水と云て、旱魃の年は近隣の者来り、請てくみとるといへり。
龍窟。境内北の方なる山の谷あひにあり、飛泉の末流この所を流る、かの古へ龍の住しと云は、此所なりとぞ、今尚窟の廣さ畳五六畳を敷程なり。
寺中三枝菴。門前の小高き所にあり、此所古へ道眞入道が居住せし所ならんといへり、太田系圖に、於武州越生、建精舎號龍穏寺、道眞常住越生、明應二年癸丑二月二日卒、八十三歳、號雪山居士とあり、道眞が自得軒のありしは此所なるべしといへり。
文書五通。左にあり。(文面省略)(新編武蔵風土記稿より)

越生町教育委員会掲示による龍穏寺の縁起

長昌山龍穏寺は大同二年(八〇七)の草創で、永享二年(一四三〇)に室町幕府六代将軍足利義政が関東管領上杉持朝に命じて無極慧撤を開山として復興させたと伝えられている。文明四年(一四七二)に太田道真・道灌父子が泰叟妙康を請じて中興し、江戸時代には将軍家の庇護を受けて大寺院へと発展した。慶長十七年(一六一二)には、下総総寧寺(市川市)、下野大中寺(栃木市)とともに幕府から全国の曹洞宗寺院を統括する僧禄司に任じられ、「関三刹(関三箇寺)」と呼ばれていた。龍穏寺は格式十万石で遇せられ、住職は麻布の江戸屋敷から登城していた。幾多の名僧を輩出し、十三人が当寺の住職を経て大本山永平寺の貫主に昇山している。
宝暦二年(一七五二)に伽藍が灰燼に帰した後、天保十二年から十五年(一八四一~四四)に再建されたが、大正二年(一九一三)に再び本堂、庫裡などを焼失した。罹災を免れた経蔵、山門、寺鎮守熊野神社は上野山之神村(現太田市)の岸亦八の彫刻で飾られ、内部には酒井抱一一門による壁画天井画が描かれるなど、贅を凝らした建造物である。また、境内には、幕末期に江戸の台場築造工事にも出仕した長沢村(現飯能市長沢)の石工「八徳の三吉」による石積みがのこる。(越生町教育委員会掲示より)


龍穏寺所蔵の文化財

  • 龍穏寺山門(越生町指定文化財)
  • 龍穏寺経蔵(埼玉県指定文化財)
  • 太田道灌公の墓

龍穏寺山門

天保十三年(一八四二)、当寺第五十六世道海大信が再建した。入母屋造、銅瓦葺きで、階下には仏法を守護する四天王が、階上には観音菩薩、八大神将と十六羅漢が祀られ、格天井は花鳥風月で彩られている。大工棟梁は和田村(現越生町西和田)の石井熊蔵ら、彫刻は上州山之神村(現群馬県太田市)の岸亦八である。山号「長昌山」の扁額は、同時期に再建された表門(総門)の「龍穏寺」と同じく、名筆大乗愚禅の墨跡である。
天保十二年から十五年にかけて、龍穏寺の復興を成し遂げた道海は、大本山永平寺貫主に昇山し、弘化元年(一八四四)に示寂した。
なお、門の正面に掛かる「安禅不必須山水」「滅却心頭火自涼」の揮毫は、当寺に書院を構えていた東宮御所書道御進講、桑原翠邦(一九〇六~九五)による。(越生町教育委員会掲示より)

龍穏寺経蔵

天保十二年(一八四一)、当寺第五十六世道海の代に七百五十両をかけて建立された。
木造三間方形造、屋根は銅瓦葺きで、漆喰壁に、上州山之神村(現群馬県太田市)の岸亦八による道元禅師入宋求法の彫刻がはめ込められている。入口の唐破風拝天井の龍には、江戸琳派の祖、酒井抱一の落款がある。
内部には八角形の輪蔵(回転式書架)が設えられ、縦五列×横三列×八面、計百二十の抽斗に、「一切蔵経(鉄眼版大蔵経)」(町指定文化財)が収蔵されている。正面には、輪蔵の創始者傅大士と普建・普成の二子の像が、四隅には八天像が安置されている。格天井の草花と壁面の牡丹や天女を描いたのは、抱一の弟子、山田抱玉である。
黒鍬(土工)棟梁は、長沢村(現飯能市)の「八徳の三吉」(島田利左衛門)が請けた。(越生町教育委員会掲示より)

太田道灌公の墓

太田道灌は、永享四年(一四三二)、扇谷上杉家の家宰太田道真の嫡男として生まれた。
当時の関東は、関東管領、古河公方、堀越公方などの地方政権が分立する混乱状況にあった。道灌は二十四歳で家督を嗣ぎ、長禄元年(一四五七)に築城した江戸城、河越(川越)城、岩付(岩槻)城を拠点に、各地を転戦して勝利し、関東の安定に尽くした。
しかし、その戦功と高潔な人柄は、かえって主君上杉定正の不興を買い、文明十八年(一四八六)七月、相州糟屋(現神奈川県伊勢原市)の定正邸で謀殺された。越生の自得軒で悲報に触れた父道真は、明応元年(一四九二)八十一歳で病没、当寺に葬られた。
なお、道灌の墓塔は、終焉の地、伊勢原市の大慈寺と洞昌院、太田家の子孫が鎌倉に開基した英勝寺にもある。(越生町再発見100ポイント掲示より)


龍穏寺の周辺図