桶川稲荷神社。桶川市寿の神社

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桶川稲荷神社。桶川市指定文化財の紅花商人寄進の石燈籠・力石

桶川稲荷神社の概要

桶川稲荷神社は、桶川市寿にある神社です。桶川稲荷神社の創建年代などは不詳ながら、寛文8年(1668)の宗源宣旨が当社内陣に残されていることから、江戸時代初期にはすでに祀られていたといいます。明治維新後には無格社となったものの、昭和4年村社に列格、また年不詳ながら八幡神社・八坂社を合祀しています。紅花商人寄進の石燈籠・力石は桶川市文化財に指定されています。

桶川稲荷神社
桶川稲荷神社の概要
社号 稲荷神社
祭神 宇迦之御魂命
相殿 -
境内社 八雲神社、阿夫利神社、琴平神社、雷電神社
祭日 春大祭4月、秋大祭10月
住所 桶川市寿2-14-23
備考 -



桶川稲荷神社の由緒

桶川稲荷神社は、嘉禄年間(1225-1227)に創建で、桶皮郷(現在の桶川市と上尾市にまたがる地域に比定される)の惣鎮守として奉斎したといいます。明治6年村社に列格、明治40年桶川宿に鎮座していた宿の鎮守神明社・字西ノ裏白山社・字浜井の若宮社・字牛久保の稲荷社を合祀、その後雷電社・浅間社・八雲社(市神)を合祀しています。

新編武蔵風土記稿による桶川稲荷神社の由緒

(桶川宿)
神明社
宿の鎮守にして、南蔵院持。

稲荷社
持前に同じ

白山社
同持。(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による桶川稲荷神社の由緒

稲荷神社<桶川市寿二-一四-二三(桶川字欠折)>
中山道桶川宿の街道筋から、東側に少し入った閑静な住宅街の一角に当社は鎮座する。社伝によると、嘉禄年間(一二二五-二七)の創建で、桶皮郷(現在の桶川市と上尾市にまたがる地域に比定される)の惣鎮守として奉斎し、神体として宝剣を祀った。下って元禄七年(一六九四)に代官南条金右衛門が幕府に乞うて社地三反五畝が除地として許された。その後、享保二年(一七一七)に神祇管領吉田家から正一位に叙されたという。
別当は、倉田村明星院の末寺であった南蔵院で、『中山道分間延絵図』を見ると、当社から南西に六〇〇メートルほど離れた、桶川宿の東(現在の東一・二丁目辺り)に位置し、その開山長祐は慶長十五年(一六一〇)の寂である。『風土記稿』桶川宿の項によれば、当社のほかに、宿の鎮守神明社と白山社も南蔵院の持ちであったが、同院は稲荷山南蔵院延命寺と号していたことから、当社とのかかわりが深かったことが推測される。
明治初年の神仏分離を経て、当社は明治六年に村社となった。一方宿の鎮守であった字西ノ裏の神明社は無格社となったため、明治四十年に字西ノ裏の白山社・字浜井の若宮社・字牛久保の稲荷社の三社の無格社と共に当社に合祀された。この時、字西ノ裏から白山社の社殿が当社境内に移築され、以後神楽殿に使用された。このほかに、明治九年に現在の西一丁目の加藤電気の辺りから雷電社が、又いつのころか桶川郵便局の西隣から浅間社が、同じく東和信用金庫の北隣から八雲社(市神)がそれぞれ当社境内に合祀された。中でも浅間社は昭和三十年ごろまで旧地に高さ二・七メートルほどの富士塚が築かれていた。この塚は、地元の富士講の人々が富士山に登拝の度に「黒ボク」と呼ばれる溶岩を一つずつ持ち帰り、これを積み上げたものであった。毎年七月一日には初山と称してその一年間に生まれた子供が母親に抱かれてこの塚に詣で額に神印を押してもらい、愛児の無事成長を祈願した。
一間社流造りの本殿は、文化十四年(一八一七)に幕府の御用大工であった江戸の立川小兵衛という棟梁によって造営されたと伝える由緒あるものである。また、昭和四十三年には氏子崇敬者の総意をもって本殿の覆屋の解体復元が行われた。
神仏分離の後、南蔵院は明治四年に廃寺となり、『郡村誌』の古跡の条に「南蔵院跡 竪六十一間・横十四間一分、面積八百六十三坪、宿の東方にあり(中略)今民有地となる」と記されている。こうして明治初年に南蔵院の法印の一人であった弉■は還俗し稲山主膳を名乗り、当社の東隣に居住して神職となり、後に正宣と改名した。当社の祭祀はその後も稲山家によって行われており、正宣の後は泰壽・甲子壽・たけ・満利子と神職を継いで現在に至っている。(「埼玉の神社」より)

桶川市教育委員会掲示による桶川稲荷神社の由緒

稲荷神社は、近郷の氏子や崇敬者により、鎮守として祀られています。かつて、この地は芝川の水源地帯で、高崎線の線路近くにあった湧水が中山道を横切ってこの付近を流れ、一帯は豊かな社が広がっていました。創建は長承3円(1134)とも嘉禄年間(1225~1227)ともいわれます。元禄6年(1693)に桶川宿の鎮守となり、明治6年(1873)に桶川町の村社となりました。約1,200坪の境内地には本殿、幣殿、拝殿、手水舎、神楽殿、社務所のほか、八雲社、雷電社、琴平社、阿夫利社が祀られています。また、かつての桶川宿の繁栄を偲ばせる文化財なども大切に守られています。(桶川市教育委員会掲示より)(埼玉県・桶川市掲示より)


桶川稲荷神社所蔵の文化財

  • 紅花商人寄進の石燈籠(桶川市指定文化財)
  • 稲荷神社の力石(桶川市指定文化財)

紅花商人寄進の石燈籠

稲荷神社拝殿の正面にある一対の大きな石燈籠です。かつて中山道の宿場町だった桶川宿は、染物や紅の原料となる紅花の生産地としても栄えました。この石燈籠は、桶川宿とその周辺の紅花商人たちが、桶川宿浜井場にあった不動堂へ安政4年(1857)に寄進したものでした。明治時代となり、神仏分離策などの動きの中で、やがてこの稲荷神社へ移されました。また、不動堂は現在浄念寺境内へ移築されています。
燈籠には計24人の紅花商人の名が刻まれており、桶川のほか、上尾や菖蒲の商人の名前もあります。かつての紅花商人たちの繁栄を伝える貴重な文化財です。(桶川市教育委員会掲示より)

稲荷神社の力石

力石は、神社などの境内に置かれ、若者などがこれを持ち上げて力比べなどをしました。稲荷神社の力石は、長さ1.25m、厚さ0.4m、重さ610kgの雫のような形の楕円形で、力比べに使った力石としては日本一重いと言われています。表面には「大般石」の文字と、嘉永5年(1852)2月、岩槻の三ノ宮卯之助がこれを持ち上げたこと、続いて、ともに当時の桶川宿の有力商人であった石主1名と世話人12名の名が刻まれています。
三ノ宮卯之助(1807~1854)は旧岩槻藩三野宮村(現越谷市)出身で、江戸へ出て勧進相撲をつとめ、江戸一番の力持ちと評判の力士でした。三ノ宮卯之助の名がのこる力石は、埼玉県内の他、千葉やかながわ、遠くは長野や兵庫でも確認されています。三ノ宮卯之助がこの力石を持ち上げた嘉永5年2月は、稲荷神社の大祭と考えられます。卯之助の怪力ぶりに、集まった観衆はさぞかし驚き、拍手喝采を送ったことでしょう。(桶川市教育委員会掲示より)

桶川稲荷神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)