廓信寺。さいたま市浦和区北浦和にある浄土宗寺院

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

廓信寺。代官中村彌右衛門吉照が開基、足立坂東三十三ヶ所霊場

廓信寺の概要

浄土宗寺院の廓信寺は、正覺山草樹院と号します。廓信寺は、代官中村彌右衛門吉照(法名信譽、元和8年1622年没)が、岩槻城であった旧主主高力河内守清長(法名廓信道譽)追福のために開基となり、光譽満靈(正保3年1646年寂)を開山として創建、慶安2年には、江戸幕府より寺領20石の御朱印状を拝領したといいます。足立坂東三十三ヶ所霊場2番、武州足立百不動尊霊場9番です。

廓信寺
廓信寺の概要
山号 正覺山
院号 草樹院
寺号 廓信寺
住所 さいたま市浦和区北浦和3-15-22
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



廓信寺の縁起

廓信寺は、代官中村彌右衛門吉照(法名信譽、元和8年1622年没)が、岩槻城であった旧主主高力河内守清長(法名廓信道譽)追福のために開基となり、光譽満靈(正保3年1646年寂)を開山として創建、慶安2年には、江戸幕府より寺領20石の御朱印状を拝領したといいます。

新編武蔵風土記稿による廓信寺の縁起

(針ケ谷村)廓信寺
浄土宗、鴻巣宿勝願寺末、正覺山草樹院と號す、本尊は彌陀を安せり、當寺は古へ一宇の念佛堂なりしを、慶長年中中村彌右衛門吉照、新たに建立して一寺となせりと、則寺號は吉照が舊主河内守の法號廓信道譽と、己が法諡信譽の字をとりて廓信寺と名づけしと云り、さにはあらで、清長が法號のみをとりしと見えたり、しかのみならず、吉照が卒せしは元和八年のことにして、當寺を開きしは、慶長年中なりしと云へば年代齟齬せり、按するに吉照舊主河内守清長追福の爲に、當寺を基立し、清長の法諡をもて寺號とせしを、彌右衛門卒せし時、寺號の一字をとりて法諡となせしなるべし。則開基は中村彌右衛門にして、開山を光譽満靈と云、武州岩槻の人なり、姓は探井氏不残上人の法嗣なり、正保三年三月廿五日示寂す、當寺二十石の御朱印は慶安二年の八月十七日賜ふ所なり。
地蔵堂。地蔵は中村彌右衛門が妻寄附せり。
仁王門。金剛の二像あり、これは中村彌右衛門寄附せりといふ。
鐘楼。鐘は近き頃の鋳造なり、傍らに元享四年の甲子の古碑あり。(新編武蔵風土記稿より)


廓信寺所蔵の文化財

  • 木造阿弥陀如来坐像(埼玉県指定有形文化財)
  • 小泉蘭斎墓碑一基(浦和市指定有形文化財)
  • 廓信寺板石塔婆一基(浦和市指定有形文化財)

木造阿弥陀如来坐像

廓信寺は、浦和郷一万石の代官中村吉照(元和八年-一六二二-没)が旧主高力清長(岩槻城主)追福のために建立した浄土宗の寺である。
この尊像は、寺伝によれば、大阪城の内仏であったものを、吉照が徳川家から拝領し、廓信寺の本尊としたものという。円満な尊顔をもち、等身大の堂々とした体軀をもつ坐像で、像高八八センチメートル、膝張七〇センチメートルである。寄木造り、玉眼嵌入で、衲衣は偏袒右肩、印相は中品中生印(説法印)であり、肉身部は金泥仕上げ、衲衣部は漆箔となっている。
元禄十四年(一七〇一)の修理銘があるが、造像当時の姿をよくとどめている。平安時代後期に盛行した定朝様式の特色を余すところなく備えた仏像彫刻の優品といえる。なお制作年代は、鎌倉時代初期と考えられる。(埼玉県教育委員会掲示より)

小泉蘭斎墓碑一基

小泉蘭斎は、文化八年(一八一〇)三上藩(滋賀県)藩士の子として江戸に生れ、三十八歳のとき藩を辞し、別所村(現浦和市)に移り、寺小屋を開いた。当時の浦和県が浦和宿本陣に郷学校を開くにあたり、石川直中校長のもとに蘭斎も招かれ、その教師となった。浦和郷学校は、明治四年二月、玉蔵院を校舎として正式に開校したが、蘭斎は、翌五年五月十三日、病歿した。明治十年。教え子たちが拠金してここ廓信寺に墓碑を建て、香華料を託した。この碑は、背面に蘭斎の事歴を刻んでおり、浦和の近代教育の歴史を知る資料として欠くことのできないものである。(廓信寺・浦和市教育委員会掲示より)

廓信寺板石塔婆一基

この板石塔婆は、高さ(地上)一二六センチメートル、厚さ四・五センチメートルで、蓮台上に阿弥陀如来を表わす種子「キリーク」を大きく刻み、脇侍の位置に、六字名号「南無阿弥陀仏」を刻んでいる。そして中央に「元享二二年甲子五月四日」とあり、元享四年(一三二四)の造立になることが知られる。鎌倉時代末期の特徴をよく備えた端正な作である、保存も非常によく、市域を代表する優れた板石塔婆である。(廓信寺・浦和市教育委員会掲示より)

廓信寺の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」