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徳林寺。狭山市入間川にある曹洞宗寺院

徳林寺の概要

曹洞宗寺院の徳林寺は、福聚山と号します。徳林寺は、鎌倉幕府倒幕の際(正慶2年1333年)に新田義貞が本陣を当地に置いた際、当所の地頭小澤某が所持する唐像の正観音を閲覧して当寺の本尊としたともいいます。その後小澤主税法謚白翁常清が開基となり、僧存松(天文2年1533年)が開山したといいます。武蔵野三十三観音霊場17番です。

徳林寺
徳林寺の概要
山号 福聚山
院号 -
寺号 徳林寺
住所 狭山市入間川2-3-11
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



徳林寺の縁起

徳林寺は、鎌倉幕府倒幕の際(正慶2年1333年)に新田義貞が本陣を当地に置いた際、当所の地頭小澤某が所持する唐像の正観音を閲覧して当寺の本尊としたともいいます。その後小澤主税法謚白翁常清が開基となり、僧存松(天文2年1533年寂)が開山したといいます。

新編武蔵風土記稿による徳林寺の縁起

(入間川村附新田)徳林寺
福聚山と號す、曹洞宗、郡中木蓮寺村瑞泉院末、開山は僧一樹存松なり、相傳ふ當寺の境内は元弘三年武蔵野合戦の時、新田義貞本陣としてこの所に二十日許逗留せし所なりと云、【太平記】に元弘三年五月八日義貞旗を揚、同九日武蔵國へ打越とあり、次に小手指原粂川合戦の條には、鎌倉より同十日金澤武蔵守貞将大将として入間川へ向ひ、路次に兩日逗留あつて十一日小手指原へ打菠み、この後しばしば合戦ありて同十六日の一戦に義貞打勝て、敵をしたひ鎌倉まで切込し山をのす、九日より十六日までわづか八日ほどの間なり、二十日ほどと云は傳への誤にや、又元和元年義宗此邊にて尊氏と戦ひし時のこととせんか、夫も急卒に出たることにて、二十日の久しきに至りて滞留すべき軍勢とも思はれず、又此時は義貞は已に討死の後十餘年に當れり、二十日と云はとかく誤あるべし、遙の後小澤主税法謚白翁常清と云人、僧存松を開山として當寺を造立せり、此存松が寂せしは天文二年十二月廿日なり、本尊釋迦の坐像傍に正観音の立像あり、これ唐土より舶来せし所なりと云、長四寸ばかり縁起の略に云、當寺は正慶二年の兵亂に、義貞境内を本陣として二十日逗留す、其頃當所に小澤某と云ものあり、唐像の正観音を持傳と聞て、義貞これを拝し所の守護佛と云しによりて、當寺に安置すといへり、この縁起元文四年に作りしものなれば、あながちに信ずべきにあらず、ここに云る小澤某といへるは開基主税が事か、さらば天文年間の人にして義貞とは年代違へり、主税が子孫は今見に左平次とて村民なり、よりて按ずるに此地義貞が本陣の舊跡なりと云は、さもあるべし、かかる故ある地なれば天文の頃小澤主税其地につきて草創し、開山一存を置しなるべし。
鐘楼。元禄四年の時の住僧金嶺が銘文を彫る、其略に云、武邑之西入間郷古将營跡戦地舊地也、壕墟爲平田城址、爲臺樹於有地有高低、往時金陽基也、中頃曹洞正宗瑞泉三葉一樹存松和尚、開闢而爲観音薩[土垂]道場焉、四嶽奔峭、蒼木翁鬱者、山福聚也、寶殿緝凞凰尾村者、寺徳林可謂勝楽不少云々、其餘考證に益なければ略す。 (新編武蔵風土記稿より)


徳林寺所蔵の文化財

  • 絹本着色釈迦涅槃図(狭山市指定文化財)
  • 絹本着色釈迦八相図(狭山市指定文化財)

絹本着色釈迦涅槃図

この図は、絹地に極彩色の仏画で、入滅した釈迦の周囲には弟子たちをはじめ、諸王・大臣・梵釈・諸天・鳥獣までが集まり悲しんでいる様子が描かれています。筆者は「御絵所宗貞」です。御絵所というのは、朝廷又は幕府・社寺に属する絵師のことです。
なお、この絵は田中・沢村を知行した旗本の小笠原家が、元禄元年(一六八八)に寄進したもので、延享五年(一七四八)に甲田重蔵が最表装したものです。(狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会掲示より)

絹本着色釈迦八相図

この図は、絹地に極彩色の仏画で、釈迦の生涯の主な事跡を描いたものです。八相とは、第一下天相・第二託胎相・第三誕生相・第四出家相・第五降魔相・第六成道相・第七初転法輪相・第八涅槃相の八場面ですが、この図では第八涅槃相を除いた七つしか描かれていないため、涅槃図と合わせて八相図となるように描かれたものと思われます。
落款はありませんが構図もしっかりしており、大和絵系の相当名のある絵師によって描かれたものと推察されます。(狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会掲示より)

徳林寺の周辺図




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