柿木八坂神社。草加市柿木町の神社

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柿木八坂神社。豊田城主夫人と子供が持参していた神体を奉斎

柿木八坂神社の概要

柿木八坂神社は、草加市柿木町にある八坂神社です。柿木八坂神社は、天正3年(1575)に豊田城(茨城県結城郡石下町豊田)が攻め落とされた城主豊田治親の夫人と子供が当地に土着、持参していた当社の神体を当地に創祀したといいます。

柿木八坂神社
柿木八坂神社の概要
社号 八坂神社
祭神 素盞嗚尊
相殿 -
境内社 稲荷社
祭日 -
住所 草加市柿木町草加市柿木町572-1
備考 -



柿木八坂神社の由緒

柿木八坂神社は、天正3年(1575)に豊田城(茨城県結城郡石下町豊田)が攻め落とされた城主豊田治親の夫人と子供が当地に土着、持参していた当社の神体を当地に創祀したといいます。

新編武蔵風土記稿による柿木八坂神社の由緒

(柿木村)第六天社
村民の持、下同じ(新編武蔵風土記稿より)

境内石碑による柿木八坂神社の由緒

八坂神社は柿木町五七二ー一番地 面積一〇二四平方米の神社で毎年七月十五日に祭礼を行う。祭神は素盞嗚尊と言われている。由緒は詳かでないが、その昔天正三年(一五七五年)常陸の国(茨城県)豊田城が落城の際、夫人が柿木に落ちのびる時、ご神体を持参されたと伝えられる。また、豊田明彦氏宅所蔵古文書によると、武蔵の国柿木村田畑其外反別取調一筆限帳(明治三年作製)に総代人渡邊吉之助 外七十五名持一五九九番地(現十王堂会館東北東約五十米の位置)四畝二十九歩、八坂社境内と記されている。そこに明治三年(一八七〇年)まであり、その後現在地に移されたと言われている。又一説によると、約二百年前柿木町六一三番地付近「たばこや屋敷」という処に豪商が居り信心深く、当時天明の大飢饉で村民の生活意欲が底迷なのに心配し、楽しみをもたせたいと考え、現在の神輿をそこで作らせたと伝えられている。いづれにせよ村民の願である五穀豊穣、無病息災、家内安全の神として四百年もの長い間崇められてきたことは事実である。又村民の憩の場としては、当社の祭りしかなかった。子供の時から七月一日の晩より始まる囃子の音を聞くたびに指折り数えて祭りの日を待った。特に神輿は荒々しいので近郷、近在からも見にくる人が多く、大変賑わったと言われている。明治三年、社を現在地に移し、大正六年に再建したものの老朽化はげしく今回建てかえざるを得なくなった。柿木町下区の総意により多額の奉賛金が奉納され社の建てかえ、並びに境内の整備がなされたことは、永く子孫に伝えるに相応しい快挙と言わざるをえない。(境内石碑より)

「埼玉の神社」による柿木八坂神社の由緒

八坂神社(柿木字圦前)
柿木は、中川(古利根川)右岸の沖積地に位置し、集落は自然堤防上にある。元亀二年(一五七一)の北条家印判状(内山文書)に「柿木川戸」と見える。
当社は、口碑に「天正三年(一五七五)常陸国豊田城が落城の際、城主の夫人が柿木に落ち延びるとき、御神体を持参した」とある。その城主の後裔が豊田長子家といわれ、当社はその豊田家から南西の方向約二〇〇メートルほどの場所に祀られていた。
また、一説には渡辺家の氏神であったともいわれ、『風土記稿』柿木村の項に「天王社村民の持」と載る村民が同家であるという。渡辺家は「たばこや」の屋号を持つ豪商で、最盛期には二千坪の敷地を持ち、使用人四、五十名を抱えていたという。天明の大飢饉の際には、村人に娯楽を持ってもらおうと、当社の本殿を兼ねた神輿を奉納したとも伝えられている。
明治に入り、当社は無格社とされた。明治三年の「武蔵国柿木村田畑其外反別取調一筆限帳」には、「総代渡辺吉之助外七十五名持一五九九番地、四畝二十九歩、八坂神社境内」と記されている。しかし、この後に渡辺家だけで当社を維持、管理することが困難となったので当社を現在地に遷座して、これを機に村持ちとしたという。大正六年には、本殿を再建したことが棟札から知られる。(「埼玉の神社」より)


柿木八坂神社の周辺図