木曽根氷川神社。八潮市木曽根の神社

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木曽根氷川神社。旧氷川・久伊豆両社の合殿

木曽根氷川神社の概要

木曽根氷川神社は、八潮市木曽根にある氷川神社です。木曽根氷川神社は、永禄8年(1565)の創建と伝えられるといい、もとは氷川・久伊豆両社の合殿であったといい、木曽根村の鎮守社でした。明治4年村社に列格、明治42年木曽根にあった八幡社、照富久稲荷神社を合祀(昭和29年に還座)、中川の河川修理により昭和61年当地へ遷座したといいます。

木曽根氷川神社
木曽根氷川神社の概要
社号 氷川神社
祭神 素盞嗚尊
相殿 -
境内社 天満宮、稲荷社、三峯・別雷
祭日 -
住所 八潮市木曽根1092-8
備考 -



木曽根氷川神社の由緒

木曽根氷川神社は、永禄8年(1565)の創建と伝えられるといい、もとは氷川・久伊豆両社の合殿であったといい、木曽根村の鎮守社でした。明治4年村社に列格、明治42年木曽根にあった八幡社、照富久稲荷神社を合祀(昭和29年に還座)、中川の河川修理により昭和61年当地へ遷座したといいます。

新編武蔵風土記稿による木曽根氷川神社の由緒

(木曽根村)
八幡社
村民の持なり
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金蔵院
光林山と號す、不動を本尊とせり、開山遊存正保元年四月廿日寂す。
氷川社。村の鎮守なり。
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正福寺
本尊薬師を安ず、古は寮なりしが、近来一寺となれりと云。
稲荷社。(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による木曽根氷川神社の由緒

氷川神社<八潮市木曾根一〇九二-八(旧木曾根字上)>
永禄八年(一五六五)四月八目の創建と伝えられる当社は、嘉永三年(一八五〇)の本殿再建時の棟札「正一位久伊豆大明神、氷川大明神」と併記されているように、元来は氷川・久伊豆両社の合殿であった。本殿が二間社になっているのはそのためである。また、この棟札には「別当金蔵院祐試法印」の名が見え、『風土記稿』では金蔵院の境内に「氷川社、村の鎮守なり」とあり、その創建には金蔵院の法印がかかわったことが推測される。
現在、当社の境内は県道に近い新興住宅地の一角にあるが、昭和六十一年一月までほ中川のほとりの、雑木林に囲まれた閑静な地にあった。遷座の理由は、中川の河川改修によるもので、これを機に拝殿・社務所など、境内の諸施設が一新された。ただし、嘉永三年五月に造られた本殿だけは、傷みも少なく、長い間崇敬し親しんできた社であったという理由から、新築はせずに旧地からそのまま移築した。
『風土記稿』に見られるように、木曾根の村内には、当社のほかに八幡社と二社の稲荷社があった。しかし、これらの諸社は当社が明治四年に村杜になったのに対し、無格社となったため、明治四十二年に当社に合祀された。しかし、木曾根新田の稲荷社だけは旧氏子の強い希望から、昭和二十九年に分祀され、照富久稲荷神社と、称して改めて祀られることとなり、現在に至っている。(「埼玉の神社」より)


木曽根氷川神社所蔵の文化財

  • 木曽根の弓ぶち(市指定無形民俗文化財)

木曽根の弓ぶち

木曽根氷川神社は、永禄年中(一五五八〜七〇)の勧請といわれ、ここで行われる木曽根の弓ぶちは、五〇〇年前頃からの祭礼と伝えられるオビシャ行事である。
オビシャは、弓矢で的を射ることによってその年の吉凶を占う行事で、ブシャとかユミブチなどとも呼ばれ、県東南部地方を中心に広く分布する。木曽根の弓ぶちは、鶴ヶ曽根上・下の弓ぶちとともに県選択無形民俗文化財にも選択されている。
木曽根の弓ぶちは、現在、毎年一月十五日(かつては一月十六日)に四つの祭り組(上集地・中集地・下集地・新田丁)によって行われる。
神主による神事の後、鳥居と社殿を結ぶ敷石に鬼(雄)・鬼(雌)と墨書した雌雄一対の的を並べて固定し、各組二名ずつ計八名の射手が二本ずつ的を射る。初射が早稲、中射が中稲、下射が晩稲を占い、矢が的の上を通れば大風、下を通れば長雨の凶作、「鬼」の文字の(上部)に当たれば水田、(下部)に当たれば畑が豊作とされる。最後に矢を二本ずつ揃えて、左右それぞれの的を三回繰り返して矢を通し、的の紙を破る通し矢(厄落とし)をして、「弓ぶち」が終わる。
「弓ぶち」終了後、謡を伴った直会となり、その間に飲み回される酒の勢いで、昭和初期の頃までは、即興で謡の詞を作り、互に相手を罵倒しあったので、「木曽根の喧嘩祭り」とも呼ばれた。(八潮市教育委員会掲示より)


木曽根氷川神社の周辺図