二丁目氷川神社。八潮市二丁目の神社

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二丁目氷川神社。旧氷川久伊豆合社

二丁目氷川神社の概要

二丁目氷川神社は、八潮市二丁目にある氷川神社です。二丁目氷川神社は、恩田治部(寛永年間没)が神主となって氷川明神を祀ったといい、その後久伊豆明神を配祀、氷川久伊豆合社と称したといいます。明治四十二年に字下の稲荷神社、字若柳の稲荷神社を合祀、氷川神社と改称しました。

二丁目氷川神社
二丁目氷川神社の概要
社号 氷川神社
祭神 須佐之男命、大己貴命
相殿 -
境内社 稲荷社
祭日 -
住所 八潮市二丁目196-1
備考 -



二丁目氷川神社の由緒

二丁目氷川神社は、恩田治部(寛永年間没)が神主となって氷川明神を祀ったといい、その後久伊豆明神を配祀、氷川久伊豆合社と称したといいます。明治四十二年に字下の稲荷神社、字若柳の稲荷神社を合祀、氷川神社と改称しました。

新編武蔵風土記稿による二丁目氷川神社の由緒

(二町目村)
氷川久伊豆合社
村の鎮守にて、村持
稲荷社
普門院の持(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による二丁目氷川神社の由緒

氷川神社<八潮市二丁目一九六一-一(二丁目字上)>
鎮座地二丁目は中川の自然堤防をなしているやや高い場所にある。地名の二丁目は条里制遺構にちなんでいるといわれ、小字が上・下・若柳に分かれ、当所は字上である。
『風土記稿』に当社は「氷川久伊豆合社、村の鎮守にて、村持、稲荷社、普門院の持」とある。
口碑によると、当地草分けの筆頭は当社の旧社家である恩田敬太郎家であり、開発時に普門院を建立し、同院持ちとなっている稲荷社を恩田家の鬼門除けに祀ったという。下って当社は、同家先祖恩田治部(寛永年間没)が神主となって祀ったものである。以降明治初期まで同家が神職として奉仕している。勧請当初は氷川の神一神を祀り、後に久伊豆の神を配祀したと思われ、「武州埼玉郡八条領二丁目村、正一位氷川大明神幣帛、正徳五年(一七一五)二月十二日神祇管領兼敬」と記した幣帛筥の蓋があり、また「奉造栄□□正一位氷川大明神久伊豆大明神両神鋲座処、元文三稔戊午晩夏吉辰」とある本殿棟札がある。これらを勘案すると配祀の時期を推察することができる。
恩田敬太郎家邸内にお仮屋(御幣の間ともいう)があり、神仏分離まで祭神須佐之男命と大己貴命の本地仏であったと考えられる延宝四年(一六七六)の懸仏二面(十一両観音と勢至菩薩)が祀られている。
明治四十二年に字下の稲荷神社、字若柳の稲荷神社を合祀している。(「埼玉の神社」より)


二丁目氷川神社所蔵の文化財

  • 二丁目の獅子舞(市指定無形文化財)

二丁目の獅子舞

二丁目の獅子舞
二丁目は、中川右岸、自然堤防上に集落が発展した。集落は、上・下・若柳の三つのムラグミに分かれ、上は二丁目の本田方に位置する。二丁目の地名は、条理遺構地名といわれ、室町期の板碑が多数分布する中世村落でもあった。
社号は、氷川神社久伊豆神社合殿と唱えたが、明治四十二年に氷川神社と改称、同年に下と若柳の稲荷神社を合祀し、現在に至る。境内の椎は、樹齢五〇〇年と推定される古木である。なお、氷川神社本殿・拝殿は、嘉永元年(一八四八)の再建と伝える。
獅子舞
二丁目の獅子舞は、七月十五日の氷川神社祭礼に奉納される。明治四十二年までは、七月十五日上二丁目氷川社、七月十六日下二丁目稲荷社、八月一日若柳稲荷社の年三回であったが、年一回に改めた。由緒は定かでないが、草創一六軒が獅子舞を持ち祭礼に奉納したのが、明暦元年(一六五五)のころであったと伝える。
獅子舞は、埼葛南部・足立区・葛飾区(埼玉県東南部系統)にみられる竜頭舞で、仕種は七曲(花・女獅子隠し・笹・橋渡し・神幣・太刀)の掛りがある。舞の間には「千早振る神の斎垣に弓張りて、あたりを固めあらたかに」の拝歌がうたわれる。更に獅子宿において、場謡がうたわれるなど、二丁目の獅子舞は、古式の祭礼儀式と舞が継承される。(八潮市教育委員会掲示より)


二丁目氷川神社の周辺図