大曽根八幡神社。八潮市大曽根の神社
大曽根八幡神社の概要
大曽根八幡神社は、八潮市大曽根にある八幡神社です。大曽根八幡神社の創建年代には諸説ありますが、文亀2年(1502)・元亀2年(1571)・寛治元年(1087)の勧請ともいい、古くより当地の鎮守社であったといい、江戸時代には当地の領主旗本森川家の崇敬を受けていたといいます。明治4年には村社に列格していました。
社号 | 八幡神社 |
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祭神 | 誉田別命 |
相殿 | - |
境内社 | 天神社、稲荷社 |
祭日 | - |
住所 | 八潮市大曽根18 |
備考 | - |
大曽根八幡神社の由緒
大曽根八幡神社の創建年代には諸説ありますが、文亀2年(1502)・元亀2年(1571)・寛治元年(1087)の勧請ともいい、古くより当地の鎮守社であったといい、江戸時代には当地の領主旗本森川家の崇敬を受けていたといいます。明治4年には村社に列格していました。
新編武蔵風土記稿による大曽根八幡神社の由緒
(大曽根村)八幡社
村の鎮守なり、福壽院持、土人の口碑に、昔は末社の稲荷を以て鎮守とせしが、元亀二年甲冑せし八幡の像を勧請して鎮守とせり。其後延宝二年地頭森川摂津守重房、新たに束帯の八幡を勧請して、元の像は福壽院に安ずといふ。
末社。稲荷、天神。(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による大曽根八幡神社の由緒
八幡神社<八潮市大曾根一八(大曾根字上内手耕地)>
大曾根は綾瀬川の左岸にある自然堤防上の集落である。地名は低く長く続いた嶺(曾根)の発達した所を表している。
当社の創建は「延宝二甲寅正月穀旦」と記されている鳥居額の銘文写しに「文亀二壬戊年始奉勧請」とある。一方、『風土記稿』に「八幡社、村の鎮守なり、福寿院持、土人の口碑に音は末社の稲荷を以て鎮守とせしが、元亀二年甲胃せし八幡の像を勧請して鎮守とせり、其後延宝二年地頭森川摂津守重房、新たに束帯の八幡を勧請して、元の像は福寿院に安ずといふ、末社、稲荷、天神」とある。
一の鳥居の銘文に「天保十五甲辰年十一月、森川伊豆守源俊朝」とあり、領主の奉納である。二の鳥居は宝暦十一年の建設で「領主御武運長久、五穀成就、信主伊勢野村住、浅田氏政臣」とある。また三の鳥居には、「安政五稔歳戊午秋八月重修、領主無彊、武運永昌、邨中安泰、五穀豊茂」と刻まれている。
これらから当社は、古くは現在境内社となっている稲荷神社を本社としていたが、文亀二年(一五〇二)に八幡神社を勧請して甲胃の八幡神像を祀り、その後延宝二年(一六七四)に、領主森川某が束帯の八幡神像を安置し、以来領主の信仰が厚かった社であったことが知られる。明治四年に村社となる。彫刻の美しい流造りの本殿は、明治二十八年の再建で「彫刻師、北相馬郡北方村、後藤一重」の銘がある。(「埼玉の神社」より)
境内掲示による大曽根八幡神社の由緒
抑、当社は、文亀二年(一五〇二)に勧請されたが、一説には後三年役に源義光が兄源義家援軍のため寛治元年(一〇八七)に花俣郷から綾瀬川を渡河し大曽根の地を経て東国に赴いた頃より、八幡神を奉斎されたとも伝える。
誉田別命を御祭神とし境内社に稲荷神社・天神社。古峯神社を祭祀する。寛文十年(一六七〇)十一月十五日に大曽根村の領主旗本森川摂津守重房公より三石の黒印状が発給され、森川家の氏神社となる。延宝二年(一六七四)に重房公は荒廃した御社殿を再興し、以来森川領六十石の総鎮守とされ元禄十五年(一七〇二)新たに二石が加増され、都合五反歩の社領を有した。森川家の毎年の正五九の御神礼は八幡神社から届けられ、祭礼の折りには森川家から代参者が遣わされ祭典が執り行われた。
御社前の第二の鳥居は、宝暦十一年(一七六一)に浅田政臣が奉納、天保十五年(一八四四)に森川俊朝が第一の鳥居を奉納、文化六年(一八〇九)に総氏子らが第三の鳥居を奉納した。これらの鳥居は、安政二年(一八五五)の地震の時に倒壊し、安政五年に再建された。
明治四年(一八七一)に大曽根村の村社に指定され、同二十二年(一八八九)に八幡村の村社となり、同二十八年(一八九五)に本殿・拝殿を改築し現在に至る。(境内掲示より)
大曽根八幡神社の周辺図