八幡大神社。寄居町桜沢の神社

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八幡大神社。猪俣党山崎三郎左衛門尉・小野光氏を祀った社

八幡大神社の概要

八幡大神社は、寄居町桜沢にある神社です。八幡大神社の創建年代等は不詳ながら、承久三年(1221)に宇治川の陣で武功のあった藤田左衛門尉能兼が当地を受領、その子三郎左衛門氏兼が当地に居を構え、さらにその子宗氏が姓を桜沢と改め、石清水八幡宮を勧請して創建したと伝えられます。また別の説では猪俣党山崎三郎左衛門尉・小野光氏を祀ったことから山崎八幡と呼ばれていたといいます。小田原北條氏の時代には、当社前に柵門(関所)が設けられ、城主北條氏邦も当社を崇敬、北條氏没落後は、桜沢村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し明治7年村社に列格、明治40年には神撰幣帛料供進神社に指定され、明治42年琴平大神社・稲荷大神社・愛宕大神社・熊野大神社・仙元大神社・八坂大神社・白山大神社を合祀しています。

八幡大神社
八幡大神社の概要
社号 八幡大神社
祭神 誉田別命
相殿 -
境内社 稲荷・愛宕・琴平・水天宮・天手長男・八坂・白山・熊野、仙元大日
祭日 春例大祭4月15日、秋例大祭10月15日
住所 寄居町桜沢3827
備考 -



八幡大神社の由緒

八幡大神社の創建年代等は不詳ながら、承久三年(1221)に宇治川の陣で武功のあった藤田左衛門尉能兼が当地を受領、その子三郎左衛門氏兼が当地に居を構え、さらにその子宗氏が姓を桜沢と改め、石清水八幡宮を勧請して創建したと伝えられます。また別の説では猪俣党山崎三郎左衛門尉・小野光氏を祀ったことから山崎八幡と呼ばれていたといいます。小田原北條氏の時代には、当社前に柵門(関所)が設けられ、城主北條氏邦も当社を崇敬、北條氏没落後は、桜沢村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し明治7年村社に列格、明治40年には神撰幣帛料供進神社に指定され、明治42年琴平大神社・稲荷大神社・愛宕大神社・熊野大神社・仙元大神社・八坂大神社・白山大神社を合祀しています。

新編武蔵風土記稿による八幡大神社の由緒

(桜澤村)八幡社
村の鎮守なり、山崎八幡と云、猪俣党山崎三郎左衛門尉・小野光氏の霊を祀れり。由て此神号ありと近郷山崎村は此光氏の奮蹟にや、福泉寺の持。(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による八幡大神社の由緒

八幡大神社<寄居町桜沢三八二七(桜沢字山崎)>
八幡山と呼ばれる標高二〇〇Mほどの山を背に、荒川に向かって南面して鎮座する当社は、社記によれば桜沢四郎左衛門宗氏が武運長久と郷里の開発とを祈るために創建した社であるといわれ、次の様な話が伝わっている。
宗氏の祖父の藤田左衛門尉能兼は、山城国(現京都府)の石清水八幡宮を厚く信仰し、承久三年(一二二一) の宇治川の陣ではその神恩に預かって武功を立て、思賞を賜った武将でその子三郎左衛門氏兼の代に至り、当地に居を構えたという。氏兼の子、宗氏は姓を桜沢と改め、祖父の遺志を継いで当地山崎の山麓に小祠を創建し、石清水八幡宮の神霊を奉斎した。これが当社の始まりである。また、このほか、氏兼が弘長二年(一二六二)に、家臣の子弟を選んで神楽一座の所作を教え、神楽を行わせたという話も残っている。
当社は、戦国時代にあっては、鉢形城主となった北条氏邦のしばしば参詣するところでもあった。また、地方豪族の祈願所としても知られ、黒川真頼なども参詣し、神威を崇め、詠進した。ちなみに、この桜沢の地は、北には上武山地が迫り、南には荒川が控え、その間を秩父往還や深谷道・本庄道などが通る交通の要衝であったため、戦国時代にはちょうど当社の前に関所が設けられていた。今ではもう関所の跡は何一つ残っていないが、柵門があったという参道入口付近に立ってみると、確かにこの什近は鉢形の城下の守りを固めるのに格好の場所である。従って城主北条氏邦の崇敬が厚かったこともうなずけるところである。
天正十八年(一五九〇)の鉢形城落城の後、桜沢は徳川家の総領となったが、氏子の崇敬はまずまず厚く、正徳五年(一七一五)八月、総氏子中が神像を奉納した。この神像は、美しく彩色された衣冠束帯の立像で、今日もなお内陣の奥に大切に安置されている。一方『風土記稿』を見ると、当社については「八幡社 村の鎮守なり、山崎八幡と云、或説に猪俣党山崎三郎左衛門尉・小野光氏の霊を祀れり、由てこの神号ありと、近郷山崎村は此光氏の旧跡にや、福泉寺の持」とある。ここに「或説」として一記されている由緒は、社記のものとは異なっているが、いずれにせよ当社は中世の武将によって創建され、桜沢の鎮守として厚く信仰されてきたことには間違いないであろう。
江戸時代、当社の別当であった福泉寺は、八幡山と号す真言宗の寺院であったが、神仏分離によって廃寺となり、当社に隣接するその境内地にあった本堂は桜沢小学校が新設されるまで、その仮校舎として転用され、校舎完成後解体された。しかし、神仏混淆時の名残として、当社の脇には神仏分離後も福泉寺の鐘楼が残され、享保十八年(一七三三)造の梵鐘が時を告げていたが、太平洋戦争でその梵鐘を供出してしまったため、鐘楼も終戦後間もなく取り壊された。
また、同寺の宝蔵も本堂跡の裏手に昭和二十五年ごろまで残っていたが、老朽化が進んだため取り壊し、その内部に納められていた大般若経六百巻は当社の拝殿に移され、今も大切に保管されている。このほか、本堂の礎石の一つが神楽殿の裏手に移されているが、それを見ると、かなり規模の大きい本堂であったことがわかる。
なお、神仏分離の後は、廃寺になった福泉寺に代わって、本山派修験の城光院が復飾して当社の神職となり、これを沢田源栄・藤田善作・高田清純・高田昭三と継ぎ、現在は高田文子が禰宜、稲山登が宮司を務めている。
一方当社は、明治七年五月に村社になり、同四十年には神撰幣帛料供進神社の指定を受けている。また、同四十二年には、全国的に実施された合祀政策の一環として、琴平大神社・稲荷大神社・愛宕大神社・熊野大神社・仙元大神社・八坂大神社・白山大神社を合祀し、境内社として祀るようになった。更に社記によれば、明治四十年四月に字岩崎・字上組・字木村の八坂神社を当社に合祀したが、いずれも昭和十八年ごろ旧地に復したとされている。また、昭和六十三年には、って水車による製粉・精米を行う人々が荒川のほとりに祀っていた水天宮が当社に移され、末社の一つに加えられた。
現在目にすることのできる当社の社殿は、本殿・拝股共に昭和五十二年に再建されたもので、新しい建物ではあるが、風格のある造りになっている。なお、この再建を機にそれまではなかった幣殿が新設され、屋根も従来の草葺きから銅板葺きに改められた。(「埼玉の神社」より)


八幡大神社の周辺図