船橋観音堂|世田谷区船橋にある堂宇

猫の足あとによる東京都寺社案内

船橋観音堂|常徳院跡地に建立した観音堂

船橋観音堂の概要

船橋観音堂は、世田谷区船橋にある堂宇です。船橋観音堂は、宮坂常徳院がかつて当地付近にあったものの宮坂へ移転したため、檀徒領民等宣撫のため当地に観音堂を建立したといいます。

船橋観音堂
船橋観音堂の概要
山号 -
院号 -
寺号 -
住所 世田谷区船橋1-20-16
宗派 -
葬儀・墓地 -
備考 -



船橋観音堂の縁起

船橋観音堂は、宮坂常徳院がかつて当地付近にあったものの宮坂へ移転したため、檀徒領民等宣撫のため当地に観音堂を建立したといいます。

境内掲示による船橋観音堂の縁起

当観音堂の由緒を常徳院開山伝承、世田谷城名残常盤記、等文献に依て顧みるに、四百八拾有余年前延徳、明応の頃船橋草奔の地穴山と呼ぶ所に世田谷領主吉良氏家臣内海、鈴木等の菩提所浄徳庵と云う小庵あり。此庵嘗て足利義尚公武蔵国に下向の折ゆかりある故を以て明応年代領主吉良成高公世田谷城の守護となさんと多摩郡二俣尾海禅寺より益芝正謙和尚を迎え寺名を常徳院と改め吉良家一寺に取立開山し居城側近宮之坂に移動し給う。
茲に於て吉良氏仏堂を船橋に存置し旧浄徳庵檀徒領民等宣撫の要あり故に浄徳庵旧跡南方至近の地を卜し一宇を建立して聖観世音菩薩を祀る。
是れ当観音堂の創始と云う。本尊安置の御堂造り厨子扉に吉良家恩賜の菊桐の定紋あるは此の由縁を思惟す。
自来戦乱の幾星霜を経て江戸時代宝暦拾壱年三月及び聖代昭和拾壱年拾壱月両度本堂再建の儀あり。
而して方今本堂破損甚しく今年六月補修を施し宝性寺上田龍憲和尚を導師として本尊供養を厳修す。(境内掲示より)

せたがや社寺と史跡による船橋観音堂の縁起

船橋観音堂は宮坂の常徳院旧跡と伝えもある船橋の通称「穴山」または「御林」とも呼ばれている地点の南百米余りの所にある。創建年代は不明であるが常徳院が宮坂へ移された以後の建立と考えられる。慶安4年
(1651)・寛文5年(1665)の頃鈴木半右衛門家の先祖が所有地116坪余りを寄進し一族及び同志代々の霊宝守護供養のため建立したものである。隣地境内に200坪余りの共同墓地がある。
此の鈴木家は延宝年代(1673-1680)頃より享保14年(1729)まで3代にわたり船橋村知行の徳川家旗本山本氏領5ケ村の宰領名主となっていた記録がある。鈴木家には正徳6年(1716)宝暦8年(1758)などの堂宇に関する古文書及び現在に至るまでの書類が保存されている。現在のお堂は昭和11年に改築したもので、建坪9坪木造瓦葺入母屋造りである。
本尊は聖観世音菩薩座像で檜皮葺屋根の高雅な御堂造りの厨子の中に安置されている。厨子は間口奥行とも3尺高さ約6尺。両扉には木造くりぬきの16の菊五七の桐の吉良家の紋章が一対ずつ刻してある。
『世田谷城名残常盤記』によれば足利氏時代の世田谷城主吉良氏寄進の仏像ではないか、また天文4年(1535)吉良頼康の時その家臣内海掃部・鈴木藤三郎などは吉良氏側近の婦女子のため無実の罪を蒙り横死したが後に無実とわかり尉霊の措置が取られたと伝えられているのでこの観音堂もこの事件に起因するのではないかとも云われている。
堂の前南側に老樹に固まれた古塚がある。高さ2m余り頂に観世音石仏像を安置しているが何か古事蹟を秘めているもののようである。塚の麓には鈴木・内海家及び一族の墓地がある。寛永・承応年代のものそれぞれ一基その他慶安・延宝・元禄など古いものがある。
お堂は境内共同墓地使用者の保有するもので宗派は限定できないが古くからの使用維持者は曹洞宗常徳院の檀下である。秋10月頃にはお十夜講が毎年おこなわれていたが昭和17年頃から中絶されている。(せたがや社寺と史跡より)


船橋観音堂の周辺図