一心山称往院|世田谷区北烏山にある浄土宗寺院

猫の足あとによる東京都寺社案内

一心山称往院|そば切り寺、宝井其角の墓

称往院の概要

浄土宗寺院の称往院は、一心山極楽寺と号します。称往院は、慶長元年(1596)白誉上人が湯島に創建、明暦の大火後浅草(西浅草3-5)へ移転しました。寺中道光庵の庵主がつくる蕎麦が評判となり、そば切り寺とも称され、文人墨客が多数訪れていました。関東大震災で罹災し、昭和2年に当地へ移転しています。

称往院
称往院の概要
山号 一心山
院号 称往院
寺号 極楽寺
住所 世田谷区北烏山5-9-1
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 宝井其角



称往院の縁起

称往院は、慶長元年(1596)白誉上人が湯島に創建、明暦の大火後浅草(西浅草3-5)へ移転しました。寺中道光庵の庵主がつくる蕎麦が評判となり、そば切り寺とも称され、文人墨客が多数訪れていました。関東大震災で罹災し、昭和2年に当地へ移転しています。

せたがや社寺と史跡による称往院の縁起

浄土宗、知恩院末寺で一心山称往院極楽寺と号し、慶長元年(1596)江戸湯島に白誉称往上人が創建した。のち、明暦の大火で悉く消失し浅草に移し、関東大震災後の昭和2年当地へ移転した。
本尊阿弥陀如来は、8丈余の座像。脇に観音、勢至の2菩薩を安置している。
江戸時代の川柳に「俳諧と蕎麦くふ腹は江戸そかし」とあるが、当院の次の二つをよんだものである。
山門前の蕎麦の碑
山門前の3m余の碑に「園光大師巡礼之処第18番称往院」とあるが、右側に「不許蕎麦入境内」と刻まれている。これには、次の由来がある。
称往院境内の道光庵主は信州人で、そばをつくることがじょうずで、檀家の参詣人に自製の信州そばをごちそうしたところ、あまりうまいのでいつのまにか評判になり、念仏道場にくる人々にせがまれて、実費で頒つようになった。当時の川柳「浅草の名高き庵へよばれ客」等にも、その名高さがあらわれている。
しかし、そばな有名になるほどに、庵主の本来の業が怠りがちなので、称往院住職はついに怒って、そばを当院より追放するという前述のような碑を、山門前に建てた。
現在、そばやの屋号に、「○○庵」というのが多いのは、江戸称往院のこの由来にもとづき、美味を誇る象徴とされているからである。(せたがや社寺と史跡より)

世田谷区教育委員会掲示による称往院の縁起

当寺は慶長元年(1596)白誉称往上人により湯島に創建されたが、明暦の大火で浅草に、さらに関東大震災により昭和2年当地に移転した。
本尊は丈六の阿弥陀如来である。浅草のころ当寺は、寺内の道光庵庵主のつくるそばが有名となり「そば切り寺」として知られたが、修行の妨げになるとして天明6年(1786)「そば禁制」の碑が当寺住職により建てられた。
この碑は同庵にあった俳人宝井其角の句碑・墓とともに現在、当寺に残されている。(世田谷区教育委員会)

御府内寺社備考による称往院の縁起

京都知恩院末 浅草不唱小名 一心山極楽寺称往院、境内古跡拝領地1500坪
慶長中湯島にて起立仕、其後年代不知当地ニ引移り申候。
開山鎫蓮社白誉上人称往和尚、慶長13年5月25日寂。下野国喜連川之執権伊藤外記之子也。永禄2年誕生、元亀4年薙髪、常陸国玉里村照光寺門ニ入、天正16年香衣参内、30歳の時幡随上人弟子と成。武州滝山八幡之夢之告ニ而弥陀之像を感得す。其後洛東一心院ニ勤修し、院主関東済度を勧玉ふニ付、武江湯島に来り、帖誓と云道心者之庵に住す。男女帰依す。幡随上人より運慶の作の中尊、堪慶作之脇士を授り、慶長元年一宇建立、一心山と号し称往院と名付く。上人また上京し、相州小田原ニ一行山称往院と云を聞き、其後勢州に至り、菩提山内宮の御手洗五十鈴川之末、丈六の弥陀堂に庵をしむ。
中興心蓮社伝誉上人露岸和尚、延宝7年9月8日卒。
本堂、本尊阿弥陀如来、木像丈5尺恵心僧都作。脇立観音勢至、各木像。円光大師、坐像、大師自作、25拝之内第18番(中略)
寺中
良挟庵(良挟院)、坪数百九十坪。開山欣誉西存大徳、寛永元年3月19日寂。開基幻悦朝夢童子、俗名後藤氏、元和元年卒。
道光庵、坪数百九十坪。開主心誉道光大徳、寂年月不詳。本尊阿弥陀如来、脇立観音、勢至。
以上乙酉書上。(御府内寺社備考より)


称往院所蔵の文化財

  • 宝井其角の墓
其角は姓は榎本、幼名現助。医師となって順哲と改めた。延宝のころ、芭蕉の門に入り、宝永4年(1707)47歳で没し、芝二本榎上行寺に葬られたが、浅草称往院に父祖の墓があるため、寺中、道光庵にも納骨された。
現在本堂脇に、宝晋堂というのがあり、其角の木像が安置され、かたわらに榎本東順(父)と其角の墓碑が苔むして並んでいる。
堂前に「夕立や法華かけこむ阿弥陀堂」の句碑があり、一代法華其角の面目がうかがわれる。

称往院の周辺図