念仏堂薬師堂|世田谷区南烏山にある真言宗智山派寺院

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念仏堂薬師堂|もと泉澤寺の念仏道場、医王寺の境外仏堂

念仏堂薬師堂の概要

真言宗智山派寺院の念仏堂薬師堂は、杉並区上高井戸にある明星山遍照院医王寺の境外仏堂です。念仏堂薬師堂の創建年代は不詳ですが、古くより当地に薬師堂があり建長寺42世円月も当地より輩出したといい、鎌倉時代には存在したと伝えられます。室町時代には、当地の領主吉良成高が泉沢寺を創建、当薬師堂を泉澤寺の念仏道場として使用したといい、薬師堂が念仏堂と称されるようになったといいます。

念仏堂薬師堂
念仏堂薬師堂の概要
山号 明星山
院号 遍照院
寺号 医王寺
住所 世田谷区南烏山2-23-1
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 -



念仏堂薬師堂の縁起

念仏堂薬師堂の創建年代は不詳ですが、古くより当地に薬師堂があり建長寺42世円月も当地より輩出したといい、鎌倉時代には存在したと伝えられます。室町時代には、当地の領主吉良成高が泉沢寺を創建、当薬師堂を泉澤寺の念仏道場として使用したといい、薬師堂が念仏堂と称されるようになったといいます。

せたがや社寺と史跡による念仏堂薬師堂の縁起

薬師堂(念仏堂)
薬師堂の発祥については朗らかではないが、古老のいい伝えや鎌倉時代の後期にこの土地から円月という名僧が出、のちに建長寺の42代住職となっていることなどから既に鎌倉時代の末頃には近郷里人の崇敬のところとして存在していたのではないかと思われる。
土地の人々は薬師堂と言わず念仏堂と呼んでいる。これは吉良成高が祖父頼高追善供養のため延徳3年(1491) に建てた泉澤寺が、旧来あった薬師堂を泉澤寺の念仏道場として併用したことや徳川氏が江戸入府以降、念仏政策を推進し念仏講が盛んになり薬師堂も使用されたことから念仏堂と呼ばれるようになったものである。
「新編武蔵国風土記稿」によれば「薬師堂除地五畝六歩、甲州街道ヨリ南、小名泉沢寺ニアリ。堂四間ニ四間半、本尊薬師ノ木仏ニテ、長一尺五寸。モトヨリワツカナル堂ナレパ、イツノ頃ノ草創ナリト云コトモ伝へズ。村持」とある。
現在の薬師堂は昭和3年に再建されたものでゐる。木造トタン葺で2聞と2間半、境内は6畝13歩で共同墓地がある。
本尊は薬師如来と阿弥陀如来で木造の立像である。脇立として日光・月光の両菩薩が安置されている。いずれも年代作者不明であるが、下山照夫氏によれば薬師如来像は室町末期の作であるとのことである。
その他、元禄15年(1702)岩本作右衛門の名の記しである南無阿弥陀仏の掛軸1幅と享保9年(1724)施主崇門堂貞碩函の釈迦涅槃画像1幅、地獄因縁経画像3幅など医王寺に保存されている。境内には元禄2年(1689)下山九兵衛ら建立の庚申塔と江戸中期正徳の頃と思われる村中一同による丈3尺5寸の釈迦涅槃石像1体がある。また境内のそばにも貞享3年(1686)の康申塔がある。
境内が共同墓地として使用されるようになったのは元禄初年に地頭名主の下山九兵衛・村名主志村玄之丞・村役人の有本作右衛門らが発願したことに始まる。
薬師堂は戸くから練馬区石神井にある真言宗三宝寺末寺の成就院医王寺持ちの境外仏主堂して管理されている。明治13年頃まで山本大人善という僧侶がいたが、その後行方不明となっている。昭和24年の世話人会で毎年2回、春秋彼岸供養がおこなわれるようになった。なお、旧千蔵村で唯一の小学校であった烏山小学校の前身である温知学舎が、明治6年(1873)に、この薬師堂で誕生した由緒あるところである。(せたがや社寺と史跡より)


念仏堂薬師堂の周辺図