観音寺|世田谷区宇奈根にある天台宗寺院

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薬瀧山観音寺|後北条氏時代小田原に創建

薬瀧山観音寺の概要

天台宗寺院の観音寺は、薬瀧山修善院と号します。観音寺は、実海僧正(川越喜多院第14世)が開山となり、円正寺と号して小田原に永正年間(1504〜1520)創建、兵火に罹り元亀年間(1570〜1573)宇奈根氷川神社傍に再建、さらに天文年間兵火に罹り、炎上(円正)を忌み嫌い当地へ移転の上観音寺と改号したといいます。

観音寺
観音寺の概要
山号 薬瀧山
院号 修善院
寺号 観音寺
住所 世田谷区宇奈根2-24-2
本尊 木造十一面観音立像
宗派 天台宗
葬儀・墓地 -
備考 -



薬瀧山観音寺の縁起

観音寺は、実海僧正(川越喜多院第14世)が開山となり、円正寺と号して小田原に永正年間(1504〜1520)創建、兵火に罹り元亀年間(1570〜1573)宇奈根氷川神社傍に再建、さらに天文年間兵火に罹り、炎上を忌み嫌い当地へ移転の上観音寺と改号したといいます。

世田谷区教育委員会掲示による薬瀧山観音寺の縁起

薬滝山修善院観音寺(天台宗)
永正年間(一五〇四〜一五二一)川越喜多院実海僧正の創立で、本尊は、十一面観音、伝教大師作と伝え、円正寺といい小田原にあった。後氷川社のかたわらに移築したが、天文の頃兵火に罹り、元亀年間、(一五七〇〜一五七三)此の地に再建した。円正寺という寺号が炎上と同音なのを忌み今の名に改めた。
墓域に後北条の家臣荒井対馬守治義およびその子孫で、井伊家世田谷領の大場氏とともに代官をつとめた当地の水田開拓者、荒井以謙善応父子の墓がある。境内の大銀杏は樹齢数百年といわれる。(世田谷区教育委員会掲示より)

せたがや社寺と史跡による薬瀧山観音寺の縁起

薬滝山修善院観音寺といい、天台宗、開山は実海僧正(川越の名刹喜多院第14世)で、永正年間(1504~1520)の創建と伝えられる。
本尊・十面観音は94.9cmの木彫立像で、行基菩薩の作とも伝教大師の作ともいわれている。もとは円正寺と号していたが、火災にあい、元亀年中(1570~1572)この地に再建し、炎上と円正の同音を避けて、本尊の名により観音寺と称し、現在にいたっている。
昭和20年5月25日の大空襲により本堂、薬師堂等すべて烏有に帰し、本尊、薬師如来像および山門だけ焼けのこった。山門の左側に大銀杏がそびえている、樹令数百年の古木といわれる。
墓域には荒井対馬治義の墓がある。治義は天文年中(1532~1554)上野国新田郡荒居村を出で、相州小田原の北条氏に仕えたが、戦傷を受けたため宇奈根村に来たり、土着してこの地を開発した。天正元年(1573)没。戒名荒井院天澗澄真居士。八代の孫一郎兵衛以謙は天明6年(1786)彦根藩世田谷領代官に起用され、世田谷村の大場代官と共に領政を担当したが、かたわら弟の富蔵名儀で酒造業をいとなみ、富有の生活をした。又江戸の国学者高田与清とも親しく、国学にくわしかった。その子市郎兵衛善応も父の後をつぎ、代官をつとめたが、文政13年(1830)故あって隠居仰せつけられた。(せたがや社寺と史跡より)

新編武蔵風土記稿による薬瀧山観音寺の縁起

(宇奈根村)観音寺
除地、七段、村の南寄にあり、薬瀧山修善院と號す、天台宗、同郡深大寺村深大寺末なり、本尊十一面観音木の立像長三尺許なるを安す、開山開基詳ならず、本堂七間半に六間半南向き、庫裏六間に四間半なり、門は四ツ足柱間九尺、往古は圓正寺と号して、村内氷川の社地にありしが、天文年中兵火にかかり、其後元亀年中今の所へ再建してより、今のごとく寺号を改めしと云、起立は永正の比といい傳ふれど詳ならず。
薬師堂。境内門を入て右の方にあり、三間四方西向、本尊木の立像長一尺、傳教大師の作なり。(新編武蔵風土記より)


薬瀧山観音寺所蔵の文化財

  • 木造十一面観音立像一躯(世田谷区有形文化財)

木造十一面観音立像一躯

木像は、薬滝山修善院観音寺の本尊で、像高九五・六センチ、檜財の一木造で、彫眼、漆箔、白豪は木製木屑漆盛上げ、胸飾りは銅製の透し彫りで鍍禁が施されている。
部分的には後補の跡もあるが、背面より内刳りをした上、背板をあてている点などに、古風な造像法が見られることや、顔や衣文などの彫りから推して、平安時代末期から鎌倉時代初期と判定される。
「新編武蔵風土記稿」によれば、「本尊十一面観音、木ノ立像長三尺許ナルヲ安ズ」と、本像のことに触れているが、その伝来は詳らかでなく、寺伝によれば永正年間(一五〇四〜一五二〇)、本寺草創の際に、小田原より持たらされた像と伝えられている。これは「江戸名所図会」に、本寺のことを、「昔は相州小田原にありて、永正寺と号したりしたが、兵火に亡びたる故に、炎上の響あるをいとひて、寺号を更むるといふ」と記されることに相応ずるものであろう。
以上のように、その伝歴は不詳であるが、区内における屈指の古像として、貴重な作例といえるものである。
昭和五十六年四月二十二日、世田谷区有形文化財(彫刻)指定。(世田谷区教育委員会掲示より)


薬瀧山観音寺の周辺図