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宝塔寺|品川区東五反田にある天台宗寺院

宝塔寺の概要

天台宗寺院の宝塔寺は、白雉山慈光院と号します。文亀2年(1502)南品川漁師町に法東寺として創建したと伝えられます。寛永の頃に慈光院宝塔寺と改称、万冶年間(1658-1661)に下大崎村一柳家下屋敷近辺に移転しましたが、目黒川の水害を受け、当地に移転したといいます。赤坂山王城琳寺末でしたが明治元年同寺廃寺に伴い、三田西蔵院末となり、さらに明治43年9月に他の同宗3ヶ寺(観音寺安楽寺徳蔵寺)と共に比叡山延暦寺の直末となりました。

宝塔寺
宝塔寺の概要
山号 白雉山
院号 慈光院
寺号 宝塔寺
住所 品川区東五反田1-2-29
本尊 阿弥陀三尊立像
宗派 天台宗
葬儀・墓地 -
備考 もと雉子神社別当



宝塔寺の縁起

宝塔寺は、文亀2年(1502)南品川漁師町に法東寺として創建したと伝えられます。寛永の頃に慈光院宝塔寺と改称、万冶年間(1658-1661)に下大崎村一柳家下屋敷近辺に移転しましたが、目黒川の水害を受け、当地に移転したといいます。正徳4年中興開山傳陽の時に白雉山の山号を許され、赤坂山王城琳寺門徒から赤坂山王城琳寺末寺となりました。明治元年本山の赤坂山王城琳寺が廃寺となり、三田西蔵院末に、さらに明治43年9月に他の同宗3ヶ寺(観音寺、安楽寺徳蔵寺)と共に比叡山延暦寺の直末となりました。

「品川区の文化財」による宝塔寺の縁起

新編武蔵風土記では、文亀2年(1502)南品川漁師町に建てられたのが始まりだと記し、しかし南品川漁師町は明暦年間(1655-1658)に海岸の寄洲を埋立ててそこにできた町であるから、この伝承は信じられないとしている。
万治年間(1658-1661)にのちに下大崎村に建てられた大名の一柳家の下屋敷の近くに移ったが、目黒川に近いので屡屡水害を受けたため現在の場所に移ったという。
開創当初は法東寺といったが寛永頃(1624-1644)に宝塔寺と改め慈光院と称したといい、また正徳4年(1714)中興開山伝陽の代に寺格が上り、山号を許されて白雉山と称したという。このときから麹町城琳寺の末寺となったといわれている。(「品川区の文化財」より)

新編武蔵風土記稿による宝塔寺の縁起

雉子神社)別当宝塔寺
本社の東にあり、天台宗にて文亀2年南品川漁師町の邊に草創すと云。されど漁師町は明暦年間海岸の寄洲を築立し所なれば、此傳請がたし。初は法東寺と書す。寛永の頃今の文字に改且慈光院と号す。萬冶年中中村内今の一柳氏の抱屋敷の邊に移れり。然るに目黒川溢れて屡水災に罹りし故今の地に転ず。草創以来江戸麹町城琳寺門徒なりしに、正徳4年中興開山傳陽の時東叡山より寺格を進め、城琳寺末となり、且山号を許して白雉山と号す。其免許状今に蔵す。傳陽は享保16年10月15日寂す。本堂庫裡を合て12間に5間、本尊弥陀の立像長4尺脇侍立観音勢至長各1尺5寸。
元三大師堂。門を入て左にあり、方2間内拝殿3間に1間半、拝殿7間に2間半庫裡の方に通ふ廊下あり。大師自筆の書像を置。此像は当寺南品川にありし頃何何の者とも知ぬ僧携来て住持に授与すと云。脇立二童子木の立像長2尺2寸、外に観音の像二体を置、拝殿にも不動の像を安置せり。
門前町屋。間口60間余。歩数238坪余。延享2年町奉行支配となれり。


宝塔寺所蔵の文化財

  • 宝塔寺石造庚申供養塔2基(品川区指定文化財)
  • 宝塔寺板木26枚(品川区指定文化財)
  • 紙本着色元三大師像1幅(品川区指定文化財)
  • 紙本着色不動明王両童子像1躯(品川区指定文化財)
  • 木造聖観世音菩薩立像1躯(品川区指定文化財)

宝塔寺石造庚申供養塔2基

寛文8年(1668)に造立の板碑型と、寛文12年(1672)に造立の笠塔婆型の2基。両基とも碑面に南無青面金剛守護所とあり、三猿の下に旧大崎村の住民と思われる施主の名が刻まれている。もとは隣の雉子神社に建てられていた。

宝塔寺の周辺図


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