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常行寺|品川区南品川にある天台宗寺院

常行寺の概要

天台宗寺院の常行寺は、熊野山報恩院と号します。常行寺は、慈覚大師が開基となり、嘉祥3年(850)に創建、長保年間(999-1003)には恵心僧都が住持を勤めたという古刹寺院だといいます。その後衰微したものの、寶海僧正が大永6年(1526)に中興、檀林として末寺500ヶ寺以上を擁していましたが、江戸時代に東叡山寛永寺の創建後に檀林を止められ、品川から川崎にかけての中本寺寺院となり、承応2年(1653)大井村から当地へ移転したといいます。

常行寺
常行寺の概要
山号 熊野山
院号 報恩院
寺号 常行寺
住所 品川区南品川2-9-18
本尊 阿弥陀如来立像
宗派 天台宗
葬儀・墓地 -
備考 墓地受付中



常行寺の縁起

常行寺は、慈覚大師が開基となり、嘉祥3年(850)に創建、長保年間(999-1003)には恵心僧都が住持を勤めたという古刹寺院だといいます。その後衰微したものの、寶海僧正が大永6年(1526)に中興、檀林として末寺500ヶ寺以上を擁していましたが、江戸時代に東叡山寛永寺の創建後に檀林を止められ、品川から川崎にかけての中本寺寺院となり、承応2年(1653)大井村から当地へ移転したといいます。

「品川区の文化財」による常行寺の縁起

嘉祥3年4月に慈覚大師が開基したと伝えている。7世源信(風土記稿では恵心)僧都長保年中に住居する様になった。古くは武蔵相模両国に於いて檀林末寺は500ヶ寺をかぞえる程であり、目黒不動の像も元は当寺の護摩堂の本尊であると云われる。又鎌倉時代には若干の寺領もあったといわれるが、後次第に衰え、文安元年より大永6年に至る81年間は住職も絶えてわずかに寺号を伝えるだけであった。同7年29世実海僧正の時に、明観の耐えようとするのをなげき、力をつくして旧観に復した。慶長年中営中に於いて天台論議の時、36世蓮海法印はその列に連なった。此頃当寺は檀林にあって相当な格をもっていたが、東叡山寛永寺の創建の後は檀林を止められその末に入る。尚往古寺地は隣村大井村にあったが、承応2年静尊の時(当時の住持は38世蓮海法印である)今の処へ移して、壮観の美をつくしたという。大井の旧地は後に土佐藩山内忠豊の邸となった。宝永の頃火災に遭い記録什物等ことごとく焼失する。享保年中に至って住僧檀越と謀って堂宇を再営して旧に復した。周辺川崎辺りに多くの末寺を持っている。(「品川区の文化財」より)

新編武蔵風土記稿による常行寺の縁起

常行寺
除地一町六段八畝五歩、年貢地二段五畝三歩、四町目の西側にあり、天台宗熊野山報恩院と號す、昔は延暦寺の末寺なりしが、今は東叡山の末となる、此寺慈覚大師嘉祥元年四月開基す、第七世恵心僧都長保年中住す、されば関東の古跡にて武・相兩國の檀林末寺五百箇寺に餘れり、目黒不動の像も元は當寺護摩堂の本尊なり、別當龍泉寺なりしと云、然に今龍泉寺にては此傳なし、又云鎌倉将軍の頃は若干の寺領も有けれど、後年次第に衰微し、文安元年より大永六年に至る迄八十一年、住僧も絶て纔に寺號を存するのみなり、同七年寶海僧正舊蹟の将に絶なんとするを嘆き、力を盡して舊観に復せり、是を二十九世中興開山とす、是より連綿し、慶長中營中天台論議の時三十六世蓮海其列に入、此頃猶當寺檀林にて然るべき寺格なりしが、東叡山御草創の後檀林を止たる、又往古は寺地隣村大井村にあり、承應二年住持静尊が時此地に移し、輪奐頗る美を盡せしと云、大井の遺址は後に松平土佐守忠豊が下第となる、今に至て邸中に常行寺石影向の松など残れりと云、寶永の頃屡回禄に罹り、記録什物悉烏有となり、享保年中に至り住僧旦越等と謀り堂舎を再營して又舊に復す、今は此邊及川崎邊宗門諸刹の本山なり、本堂七間四方東向、本尊弥陀を安ず木佛長三尺。
寺寶水晶珠数一連。慈覚大師の所持せし物と云。
伏鉦一面。慈覚大師常行三昧念佛執行の伏鉦なり、尤古色に見ゆ。
慈覚大師像一軀。自作なり坐像にて長八寸。
地蔵尊一軀。石像弘法大師の作と云長一尺三寸。
三尊阿弥陀各軀。恵心僧都の作と云立像長一尺。
五鈷一握。兜率覺超の所持せしものと云。
古幡一流。表は赤地金欄牡丹から草の文あり、裏は素絹と見ゆ長四尺餘幅一尺七寸餘、赤地はことに色あせたれど、金色は鮮明なり、裏も地の太き絹にていかにも古色なり、幡の角に紙に當山門末五百七十餘箇寺、官軍へ御加勢の幡と云るも何の御代にや考うべからず。
後水尾院宸翰一幅。金地の色紙なり。
五大尊畫像各幅。筆者詳ならず先年盗に奪はれしかど忽其盗搦られ普賢文殊の二幅は舊に復し、釈迦の一軸は得ず、故に補入して今三幅の数に充るのみ。
辨財天像一軀。恵心僧都の作と云、長五寸許、厨子に入て本堂に安置す。
潮中薬師佛一軀。一名を沖中薬師とも云、もと寺中真光院の本尊なりしが廃後本堂の内に安す、廃蹟今門を入て左にあり、今戸越村に薬師水と云所あり、此像出現の地也と云。
鐘楼。門を入て右にあり、九尺四方鐘は寶暦年中鋳。
地蔵堂。鐘楼の傍にあり一間に九尺。
熊野社。西南の田間にあり、境内の鎮守なりことに古社なりと云、妙國寺文書に憲泰と云人、永享十一年熊野堂の南一段の地を妙國寺に寄附すと云、熊野堂は即當社なるべし。
門前町屋。古門前は表門に傍へり、間口三十一間歩数三百六十五坪餘、承應二年當所に移りし後建る所、延享三年町奉行の支配となる、新門前は裏門の傍にあり、間口西側四十九間北側四十八間、歩数七百四十八坪餘、明和五年五月寺社奉行久世出雲守廣明に願ひ、十年の期限を建て夫より町奉行の支配を受。(新編武蔵風土記稿より)


常行寺の周辺図


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