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瑞雲山天龍寺|品川区南品川にある曹洞宗寺院

天龍寺の概要

曹洞宗寺院の天龍寺は、瑞雲山と号します。天龍寺は、越前宰相忠昌の母清涼院殿(寛永17年1640年逝去)が開基となり、一庭氷見和尚が天正9年(1582)当地に創建したといいます。一庭氷見和尚はしばしば徳川家康にに呼ばれ、江戸城登城に不便だったことから、下谷に功徳山天龍寺を建立、そのため当寺は一時荒廃したものの、総寧寺哲尊が江戸宿寺として利用、再興したといいます。

天龍寺
天龍寺の概要
山号 瑞雲山
院号 -
寺号 天龍寺
住所 品川区南品川4-2-17
宗派 曹洞宗
本尊 釈迦坐像
葬儀・墓地 -
備考 -



天龍寺の縁起

天龍寺は、越前宰相忠昌の母清涼院殿(寛永17年1640年逝去)が開基となり、一庭氷見和尚が天正9年(1582)当地に創建したといいます。一庭氷見和尚はしばしば徳川家康にに呼ばれ、江戸城登城に不便だったことから、下谷に功徳山天龍寺を建立、そのため当寺は一時荒廃したものの、総寧寺哲尊が江戸宿寺として利用、再興したといいます。

新編武蔵風土記稿による天龍寺の縁起

(南品川宿)天龍寺
除地六段二畝四歩大龍寺の南隣なり、瑞雲山と號す、禅宗曹洞派駿河國有度郡大谷村大正寺末、開基は越前宰相忠昌御母堂清涼院殿なり、寛永十七年七月二十七日逝去、開山は一庭氷見、慶長十八年十二月三日寂す、寺僧云下谷天龍寺(功徳山天龍寺)は昔此寺の出張所なり、其故は品川より御城迄程遠をもて、下谷に於て一寺を建、住僧其所に居、召に従て登營せり、故に彼寺も天龍寺と名付さればあながち本寺ならねども、後は下谷天龍寺住職替る毎に、當寺より其人を撰で公に願ひ奉り、詳を得て本寺に達すと云、下谷天龍寺の傳に、天正九年氷見品川の天龍寺を創建せしが、東照宮御時二世嶺育に寄依し給ひ、しばしば召れて拝謁す、老僧遠路の往来に堪ず、御城近邊にて寺地を賜ん事を願上、慶長十五年湯島にて替賜り、元地は無住にひとしかりしを、國府臺総寧寺哲尊在府の時宿寺とし、後遂に其弟子實鈯して住せしむ、後に轉じて今の地に移れりと云、斯兩寺の傳區々なれば今姑く並べ記せり、本尊釈迦坐像長七寸客殿八間に六間半。
寺寶
古屏風一隻。古法眼元信の畫と云傳ふ、唐玄宗楊貴妃の圖なり、越前家より寄附する所と云傳ふ、畫像は殊勝なれど著色は後人の潤色を経しものと見ゆ。此畫につき奇怪の説あり今とらず。
屏風一隻。鷹の畫なり、探幽守信筆。
屏風一隻。土佐家の畫尤古色なり、筆者詳ならず。
鐘楼。本堂に向て右にあり、鐘に享保年間の銘あり。
表門。東に向柱間八尺。(新編武蔵風土記稿より)

品川区の文化財による天龍寺の縁起

寺伝によれば下谷天龍寺(現足立区東伊興功徳山天龍寺)は昔此寺の出張寺であった。それは品川から御城までは、かなり遠いので、下谷に一寺を建立して住僧はそこに居て時々登城したのである。それで彼の寺も功徳山天龍寺と名付けた。下谷天龍寺の伝に、天正9年一庭氷見が品川の天龍寺を創建したが、東照宮の時二世嶺育に帰し召されて登城した。老僧遠路の往来にたえられず、御城の近くに寺地を賜ることを願い上げ、慶長15年湯島を替地として賜り、元地は無住に等しいものになったが、国府台総寧寺哲尊が在府の時宿寺として後、其弟子宝鈯を住まわせ、後で今の地に移ったと云う。(品川区の文化財より)


天龍寺の周辺図


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