光照寺|新宿区袋町にある浄土宗寺院

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樹王山光照寺|出羽酒井家の菩提寺

光照寺の概要

浄土宗寺院の光照寺は、樹王山正覚院と号します。光照寺は、慶長8年神田に創建、正保2年(1645)当地へ移転してきたといい、開山は心蓮社清譽上人(寛永15年1638年寂)、開基は松平治良右衛門(法名良覺院殿天譽浄安居士、万治元年1658年卒)だといいます。当寺は出羽酒井家の菩提寺であった他、数多くの崇敬を集めていたといいます。

光照寺
光照寺の概要
山号 樹王山
院号 正覚院
寺号 光照寺
宗派 浄土宗
住所 新宿区袋町15
葬儀・墓地 -
備考 -



光照寺の縁起

光照寺は、慶長8年神田に創建、正保2年(1645)当地へ移転してきたといい、開山は心蓮社清譽上人(寛永15年1638年寂)、開基は松平治良右衛門(法名良覺院殿天譽浄安居士、万治元年1658年卒)だといいます。当寺は出羽酒井家の菩提寺であった他、数多くの崇敬を集めていたといいます。

「牛込區史」による光照寺の縁起

樹王山正覺院光照寺 増上寺末
慶長八年神田元誓願寺寺町に起立、正保二年牛込に移る。開山心蓮社清譽上人、寛永十五年七月十日遷化。開基(三州松平太郎左衛門親長次男松平民部之丞重政より三代目)松平治良右衛門、法名良覺院殿天譽浄安居士、萬治元年十二月廿五日死去。舊境内古跡拝領地千六百三十二坪。本尊阿彌陀如来は行基の作と云ふ。
塔頭に清龍軒・念宗院・林勝軒・正受院・報勝軒・西光庵の六軒があり、其名は慶長から寛永頃までに屢々出て居り、貞松院・寳樹院の二軒は、萬治年中まで名前が出て来るが今は不詳である。この外に林松軒・清光院などもあつたが、今は一つも残つてゐない。(「牛込區史」より)

「新宿区の文化財」による光照寺の縁起

浄土宗、増上寺の末寺である。この地は室町初期に上野国(群馬県)大胡から移って来た大胡(のち牛込)氏の築いた牛込城の跡といわれ、光照寺は正保二年(一六四五)に神田から移転した。この付近は見晴しの良い高台で、昔は江戸湾に出入りする船が望見できたと伝えられている。
光照寺は出羽(山形県)松山藩主酒井家の江戸における菩提寺であったため、初代忠恒をはじめ歴代藩主一族の墓が並んでおり、大名家の威勢をしのばせてくれる。
境内には、東京のほうずき業者が昭和十六年に建てた珍しい「海ほうづき供養塔」をはじめ、金石学研究家奥田抱生の墓、徳川家の奥右筆だった大久保北隠の石庭風の墓、狂歌師便々館湖鯉鮒(文政元年四月五日没、法号は便了院殿松誉夕山居士)の墓【区登録史跡】などがある。
また、「諸国旅人供養碑」【区登録文化財】は、神田松永町の旅籠屋紀伊国屋の店主利八が文政八年(一八二五)に、旅行先で死亡した人々の菩提をとむらうためにたてたもので、信濃 (長野県)、奥州(福島・宮城県など)、越後(新潟県)など関東、中部、東北の諸国からの旅人の名が記されている。(「新宿区の文化財」より)


光照寺所蔵の文化財

  • 牛込城跡(新宿区登録史跡)
  • 木造地蔵菩薩坐像(新宿区指定有形文化財)
  • 木造十一面観音坐像(新宿区登録有形文化財)
  • 阿弥陀三尊来迎図(新宿区指定有形文化財)
  • 法然上人画像(新宿区指定有形文化財)
  • 狂歌師便々館湖鯉鮒の墓(新宿区登録史跡)
  • 諸国旅人供養碑(新宿区登録文化財)

牛込城跡

光照寺一帯は、戦国時代にこの地域の領主であった牛込氏の居城があったところである。
堀や城門、城館など城内の構造については記録がなく、詳細は不明であるが、住居を主体とした館であったと推定される。
牛込氏は、赤城山の麓上野国(群馬県)勢多郡大胡の領主大胡氏を祖とする。天文年間(一五三二~五五)に当主大胡重行が南関東に移り、北条氏の家臣となった。天文二十四年(一五五五)重行の子の勝行は、姓を牛込氏と改め、赤坂・桜田・日比谷付近も含め領有したが、天正十八年(一五九〇)北条氏滅亡後は徳川家康に従い、牛込城は取壊された。
現在の光照寺は正保二年(一六四五)に神田から移転したものである。
なお、光照寺境内には新宿区登録文化財「諸国旅人供養碑」「便々館湖鯉鮒の墓」などがある。(新宿区教育委員会掲示より)

木造地蔵菩薩坐像

寄木造り、黒漆塗り。像高三一センチ。十三世紀末(鎌倉時代)の作品で区内で最も古い仏像彫刻のひとつである。
寺伝によると、この像はもとは近江国三井寺にあり、後宇多天皇の皇后が弘安年間(一二七八~八八)に、のちの後二条天皇を出産する際、難産であったため、この像に祈ったところ無事出産されたところから「泰産地蔵」と呼ばれたという。江戸時代には芝増上寺に移され、正徳年間(一七一一~一六)に増上寺の末寺である光照寺に安置され、「安産子育地蔵」として信仰をあつめた。光照寺前の地蔵坂はこの像に因むものである。(新宿区教育委員会掲示より)

木造十一面観音坐像

一木造り、素木仕上げ。像高七〇センチ。一八世紀末(江戸時代後期)の作品で、作者は木食明満である。明満(一七一八~一八一〇)は、円空とならび称される造仏聖で、全国を旅して鉈彫りの仏像を約千体彫ったと伝えられる。(新宿区教育委員会掲示より)

阿弥陀三尊来迎図

絹本着色、木製の板に張り付けられた状態で、厨子に納められている。
縦一〇二・二センチ、横三九・四センチ(画像寸法)
画面左上から右下に向かって、阿弥陀如来が観音・勢至の二菩薩を従えて来迎する(臨終の床についた者を極楽に迎えるため降りて来る)様子を描いたもので、十四世紀後半(室町時代)の作品と推定される。(新宿区教育委員会掲示より)

法然上人画像

絹本着色、掛軸装されている。縦八九・五センチ、横四一・三センチ(画像寸法)。
浄土宗の宗祖法然上人の肖像で、十五世紀後半(室町時代)の作品と推定される。(新宿区教育委員会掲示より)

光照寺の周辺図